2020年10月28日(水曜日) 12:32 地域・まち

阪神淡路大震災 記憶伝えた男性の足跡

ことし4月、阪神淡路大震災を伝え続けてきた3人の男性が相次いでこの世を去りました。その思いは次の世代へ受け継がれます。

(白木利周さん)
苦しみ悲しみそれと心の傷はゼロにしたいけれど残念ながらできない。ずっと背負っていかなければいけないと思っています。それが子どもに対する供養かなと思っています。

ことし1月、神戸大学で営まれた追悼式で息子への思いを語っていた白木利周さん。このおよそ3カ月後に病気のため亡くなりました。

白木さんは、阪神淡路大震災で神戸市東灘区の自宅が全壊し、神戸大学の学生だった健介さん(当時21)を亡くしました。

(白木さん)
ある意味では自分の殻を作ってしまった。私たちの苦しみは本当に理解してもらえないという気持ちが非常に強かった。何で私たちだけこんな苦しい試練をさせられるのかなと。

震災後、NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」=HANDSの理事長を務め、神戸市中央区の東遊園地で営まれている「1.17のつどい」の運営にも携わりました。

(白木さん)
最初の1年は何を話してもすぐ子どもの方にいってしまう。遺族の方たちとの話ができるというのは、神戸大学に慰霊碑がございますので、お話できるのはその場しかなかった。

HANDSの元代表理事で、長年共に活動を続けてきた、俳優の堀内正美さん(70)が初めて白木さんと出会ったのは1999年。堀内さんが、震災の慰霊碑をまとめた「震災モニュメントマップ」を持って神戸大学の追悼式を訪れたのがきっかけです。

(堀内さん)
6434人の方が亡くなっているけれど健介くんの死は6434分の1じゃなくて1分の1じゃない。家族にとって。だから他の死を受け入れられなかった。
そんな中でマップを見ることを通して初めて他の方たちの死を知って慰霊碑を訪ねたい。じゃあ一緒にそこを訪ねるウォークを作ろうと皆さんに呼び掛けて。

白木さんとの出会いをきっかけに、遺族同士の交流や震災の語り継ぎを目的に、体験者の話を聞きながら慰霊碑を巡る「震災モニュメント交流ウォーク」が始まりました。

(堀内さん)
一緒に歩いているうちに「どこからいらしたんですか」とか「震災のときどうでした」と話す中でぽろっとしゃべり出す。「実は家族を失って」とか「仕事を失って」とか「家を失って」とか。

白木さんは、その年の7月、神戸市東灘区の弓弦羽神社に建てられた健介さんの名前が刻まれた慰霊碑の前で、これまであまり語ることがなかった当時のつらい体験について話したといいます。

(堀内さん)
ここですね健介くんのお名前。白木さんは自分のような苦しい思いを誰にもしてほしくない。そのためには日頃からの備えであったりそういうことを訴えていきたいと。

2002年にはHANDSの初代理事長に就任し、震災の経験を伝えたほか東日本大震災の被災地に駆け付けるなど精力的に活動してきた白木さん。2015年、神戸大学の追悼式に足を運んだ際には活動の意味を語っていました。

(白木さん)
皆さんからいろんな形で支援をいただき応援もしていただき励ましてもいただきました。少しずつお返しすることができればなと。そのためには震災をきちっと伝えていくことも必要じゃないかな。

(堀内さん)
「いつの日か自分も白木さんのように人のために役立てるようになる」「今は家族を失って苦しいけれど、いつの日か白木さんみたいに笑顔で傷を持たれた方に寄り添えるようになれるんじゃないか」というまさに希望でしたよね、白木さんの存在が。

さらに、白木さんが亡くなったことし4月、自ら自転車で各地を巡り、震災の慰霊碑を記録した地図、「震災モニュメントマップ」の作製に携わった上西勇さんと追悼行事に使う竹灯ろう作りに尽力した山川泰宏さんも亡くなりました。

東遊園地にある慰霊と復興のモニュメントの地下には震災で亡くなった方の名前が刻まれ、一角には復興に貢献した人たちの名前が並んでいます。

(堀内さん)
ことしは白木、上西、山川という3人がここのプレートに名前を貼らせてもらおうかなと思っている。

震災の記憶を伝えるため尽力した3人。その思いは後世に引き継がれます。

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