1995年1月17日午前5時46分。
突然の激しい揺れ。
壊れた時計
不慮の死、家屋の滅失、長く厳しい避難生活。
多くの人の生き方そのものを変えた。
私たちの局も、かつて経験したことのない
非常事態に追い込まれた。
地元テレビ局の役割とは・・・。
被災者のための放送とは・・・。
「これでいいのか」と幾度も振り返り、
苦悩しながらの放送だった。

 第 一 声

 

散乱した報道部室内
 大地震によって、サンテレビの社屋も被害を受けた。

 第1スタジオはカメラ1台が損壊、

 スタジオセットも倒れ使えない。

 各部屋とも机や棚が散乱、スプリンクラーが壊れ、

 一部では天井から水が漏れていた。

第一スタジオ
 しかしマスター(主調整室)付近は耐震設計になって

 停波(放送電波のストップ)だけは免れた。

 隣のニューススタジオも、かろうじて使用可の状態。

 多くのスタッフが地震直後から本社を目指して自宅を

 出たが、道路が寸断され、なかなかたどり着けない。

テレビカメラ
 それでもようやく、

 10人のスタッフが揃った。

 午前8時14分。

 CMの途中からアナウンサーが画面に割り込んだ。

藤村徹アナウンサー
「ご承知の通り、今朝6時前、

 淡路島付近を中心に強い地震がありました。

 神戸は震度6ということです。・・・」

 これが、全ての通常番組とCMを止め、

 6日間・106時間28分にわたって放送し続けた

 「震災特別番組」の始まりだった。


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