助かったはずの命 母が残した日記で「私が伝えなければ」と~災害関連死で祖母を失った遺族の思い~

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  • 松下加代子さん

  • 松下さんの祖母 堀内ミツさん

  • 母が残した家計簿(日記)

  • 1995年 震災時の避難所

  • 1.17伝承合宿(2024年11月神戸市北区)

  • 2025年1月17日 東遊園地(神戸市中央区)

災害関連死で祖母を亡くした松下さん

阪神淡路大震災では6434人が亡くなり、3人が行方不明です。

このうち921人が避難生活中の環境の悪化で呼吸器疾患や心不全などによって亡くなり、災害関連死と認定されています。

公表されている6434人とは別に、2020年に宝塚市で新たに1人が認定され、阪神淡路大震災の災害関連死は現在922人となっています。

能登半島地震では、1月23日時点で516人が死亡。2人が行方不明です。

このうち災害関連死が288人と、直接死の228人を上回っています。

能登半島地震でも、被災者が、発災直後、学校の体育館で雑魚寝するなど、阪神淡路大震災の教訓が果たして生かされているのか疑問を感じます。

地震で助かったはずの命。災害関連死で祖母を亡くし、震災について語り始めた遺族の女性を取材しました。

(取材:サンテレビニュースキャスター 藤岡勇貴)

語りたくなかった震災

 30年前、神戸市須磨区で両親と暮らしていた松下加代子さん(58)。

阪神淡路大震災で祖母の堀内ミツさん(88)を災害関連死で亡くしました。

松下加代子さん

「10年くらい経ってからやっと足を運ぼうかなという気持ちになって。あそこに行けばおばあちゃんに会えるかなという思いになりました。」

「明るくて、地域の老人会員の役員とかもしていたので、結構活発なおばあちゃんです」

 震災当時、糖尿病の治療などで祖母が入院していた病院は全壊。地震では助かったはずの命でした。

「また来たよって 何年経ってもおばあちゃん大好きだよって声をかけています。ここに来たらおばあちゃんに会えるような気がして。せっかく震災では助かった命なので、その後もずっと命をつなげていきたかったなと。残念に思います」

 祖母の名前が刻まれた銘板がある東遊園地。10年前までこの場所に怖くて来られなかったそうです。

松下加代子さん

「自分の心の中にとどめておいて あまり語りたくなかった。思い出したくないっていうのが一番強かったのでなかなか家族とかにも話す機会もなかったですね」

夫 松下泰啓さん

「(家族にも)積極的に話すということがなかったですね。来る時は大体一緒に東遊園地に来て手を合わせていたが、最近ですね来るようになったのは」

震災当時の様子を記録した日記が

 父だけでなく、2019年には母がこの世を去り、当時の祖母のことを語れる人は松下さんだけになりました。

松下加代子さん

「私しか今知らないんだって思うと、1人の遺族としてやっぱり伝えていかなければいけないと思って一歩踏み出すことができました。きっかけがその母の日記があって語り継ごうかなという気持ちになりました」

 母の幸子さんは55年間で55冊の家計簿を残していました。1995年の家計簿には、震災当時の様子を記録した日記も残されていました。

日記

(寝ていたらグラッと来たので、起きようとしたら頭の上に物が落ちて来たので、布団をかぶった。主人は和だんすが倒れ下敷きになって起きられない。 おばあちゃんのことについては、母は大黒小学校の講堂へ避難させてもらい、毛布や布団にくるまって寝ていたので安心)

 松下さん家族や祖母がいた神戸市須磨区板宿地区。大規模な火災が発生した地域です。松下さんの自宅は半壊し、祖母が入院していた病院は全壊。祖母は近くの小学校に避難しました。

慣れない避難生活 寒い避難所

日記

(小学校は床の上に敷布団、それから掛け布団があるだけで、とても寒い避難所となりました。そこで、祖母は、なかなか電気も、水道も止まっている中で、 温かいものを食べられず、寒い避難所で、だんだんと元気がなくなってきました)

当時88歳。暖房のない寒い避難所生活は体の不調を引き起こします。野戦病院が設置された近くのに保育所に移った後、病状がさらに悪化し長田区の病院に転院しましたが、震災から2週間後の2月2日。

日記

(2月2日、夜通し片付けをしていると、朝方、公文病院にいる加代子からすぐ来るようにと電話があり、2人で急いで行く。7時20分、今、息を引き取ったところだった。先生も一生懸命してくれたが仕方ない。でもあまりにも、あっけなく早かった)

松下加代子さん

「震災のことをあまり思い出したくなくて、 どちらかというと、忘れたいという思いのほうが強くて、 あまり周りの人に伝えたり、 話をしたりすることができない時期が長く続きました」

母が残した日記。当時の行動や災害関連死の申し立てを行ったことなど松下さんがこれまで知らなかったことが記されていました。

松下加代子さん

「それを見ると、あの時のことを知っているのは私しかいないと思うと、語り継がないといけないなという思いになりました」

阪神淡路大震災の伝承合宿に参加

 震災の経験や教訓を伝えようと神戸で2024年11月に行われた震災伝承合宿。復興やボランティアに携わった人たちや当時を知らない大学生や高校生など約60人が2日間ともに学びました。その中に松下さんの姿も。

松下加代子さん

「語り部みたいな大きなことはできないですけども、自分のできることをできる範囲で自分の言葉で当日のこともそれから30年間、立ち上がったことも、温かさやぬくもりとかをいただいたことも語っていきたいと思います」

 私が伝えなければ。母が亡くなった後、新聞取材にも応じるようになりました。

松下加代子さん

「35年、40年と続くわけなんですけども、私の思いは変わらないと思うので語り続けていきたいと思います」

2月2日 祖母の命日

 震災から30年の2025年1月17日。東遊園地に松下さん夫婦の姿がありました。

松下加代子さん

「この日にこの場所になかなか来ることができなかったんですけども、10年くらい前からやっと足を運ぶことができてこの場所は私にとって、生き残った私にとって一歩を踏み出すことのできた場所であり、感謝を伝える場所だと思っているので。これからも毎年足を運ぼうと思っています」

震災30年松下さんのメッセージ

松下さんは、被災地など歌を通じた支援活動を行うシンガーによる集団 human note(ヒューマンノート)に所属していて、震災30年、メッセージ付きのチョコレートを配りました。

阪神淡路大震災から30年 

神戸の街が悲しみに包まれたあの日

失ったものも多かったけど かけがえのないものを得た

人の心のあたたかさ つながり 生きるよろこび

忘れたい思い出したくないと語れなかった25年間

やっと心の整理がつき

語ろうという気持ちになった5年前

30年という時が経ったからこそ 伝えられること

「本当の復興とは何か」を伝えていきたい

いつどこで起こるのかわからない災害

日ごろから備えるとともに

防災の知識も学んでいきたい

自分の命 大切な命 そして未来を守るために

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