兵庫県神戸市にある地元放送局サンテレビの社員や元社員から阪神淡路大震災の経験を聞き取る「証言1.17」。
震災当時、緊急放送に携わった元デスクの男性を取材しました。
阪神淡路大震災がサンテレビに与えた使命とは。
初めて経験する巨大地震 その時、サンテレビ社員は
1995年1月17日 午前5時46分に発生した阪神淡路大震災。
被害の全容が見えない中、サンテレビは地震のおよそ2時間半後 午前8時14分から緊急特別番組を放送します。
報道部元デスクの宮田英和さんは地震発生後、この橋を歩いて渡り神戸・ポートアイランドにあった本社を目指しました。
【サンテレビ報道部 元デスク 宮田英和さん】
「そこを曲がったら空調から水がダーッと漏れていて廊下が水浸し。ようやくスタジオの方へ行ったら当時の報道部長がパジャマ姿でフロアディレクターをしていた」
豊富な経験経てデスクを担当も…未曽有の大災害を前に成す術なし
入社以来、記者として報道に携わってきた宮田さん。
警察担当が長く、様々な事件取材を経験し、1995年の震災当時は複数の記者を統括するデスクの役割を担っていました。
【宮田英和さん】
「番組の中に情報をどんどんいれていって次々と新しい情報を入れるべきなんですけど、その情報がないので今まで私が報道でやってきたことってまったく生かせていないよね。まさに無力感でした。本当に100人 200人単位で死者の数が増えていくというのに呆然として情報をそれでも集めようとするんですけどそれでも集まらない」
情報が集まらない中、自宅から本社にたどり着いた社員らがスタジオに入り、被害状況を伝えていきます。
【サンテレビ社員】
「火の手があちこちで上がっている、古い家は倒壊。足だけ見えている、埋まっている人がいる」
しかし、17日夕方の時点で出社できたのは全社員の3分の1にあたるおよそ50人。
自宅が全壊したり、家族がけがをした人もいました。
「地震の被害を伝えるのは諦めよう」 異例の決断 その理由は
震災翌日の1月18日、サンテレビは地震の被害情報は報道せず他局に任せるという異例の決断を下します。
【宮田英和さん】
「会社に来ている人間は程度の差はあれ、被災者なんです。家が被災している。放送を続けながらも家族や友人、知人のことがすごい気になる。水が出ているのかとか電気が来ているのかとか」
伝えたのはライフラインをはじめ、営業している銭湯や買い物ができる店、それに休校情報、心のケア相談など生活に特化した情報です。
必要としている被災者に届くよう情報を省略せず、必ず2回読み上げるよう指示しました。
被災者が必要としている情報は何か 被災したテレビ局だからこそ伝えられることを
【宮田英和さん】
「モニターが並んでいてよその局がある。サンテレビだけ青い画面に字だけが出ている。それが延々と続いている。本当に地味な放送だったけど地味な放送をすればするほど視聴者からの反応は大きかったので『あぁこれなんだ』という風に思いました」
「被災者目線」を大切に。その取材姿勢が生きた出来事があります。
1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件。
2月から5月にかけて小学生5人が相次いで襲われ2人が殺害されたこの事件では容疑者の少年が逮捕されるまでの間、被害者や地元住民が激しいメディアスクラムにさらされました。
この状況を受け、サンテレビは被害者遺族への取材を自粛することを決めます。
常に被災者の目線で 阪神淡路大震災が地元局に与えた使命
【宮田英和さん】
「これ以上、地元の放送局として住民に不安や恐怖を与え続けるわけにはいかない。震災の時と同じように地元目線に取材をしようと決めた。
取材の自粛を新聞で知った被害者遺族から連絡が入り、後の取材につながりました。
【宮田英和さん】
「住民へのインタビューはやめる。一方で安全が確保された児童館や警備員がいる公園とかいわゆる住民のための安心できる情報を取材して放送するということを決めました。阪神淡路大震災の時の被災者目線、地元の住民が必要としている情報は何かという放送だったと決めたわけです」
阪神淡路大震災からまもなく30年。
復旧や復興が進み街並みが変わっても地元のテレビ局としての役割に変わりはありません。
【宮田英和さん】
「常に今困っている人、今弱い立場にいる人、その人たちの目線でしゃがんで取材したい。放送したいというのはあの震災以降、間違いなくサンテレビの方針だと思っています。
災害における命を救う情報の大切さを認識したうえで被災者目線で伝えてほしい。これが私の阪神淡路大震災で学んだ最大の教訓です」