2024年01月18日(木曜日) 16:12 報道特集・ドキュメント

【震災特番】20歳の兄が犠牲 父の背中を追い語り部に

神戸を拠点に阪神淡路大震災の経験を伝える団体「語り部KOBE1995」。

(秀英さん)
「そろそろ僕が一緒に語り部に入って引き継いでいかないとだめなんじゃないかなという思いで、ことしからメンバーに入らせていただきました。よろしくお願いいたします」

会合に参加したのは、在日コリアンで、神戸市須磨区に住む崔敏夫さんと、息子の秀英さん。

父親の敏夫さんは2011年から活動してきました。息子の秀英さんが加わったのは去年2月。人前で語ったことはまだありません。

(秀英さん)
「これが亡くなった兄で、次男の秀光です。当時の大学時代の写真です。これだけ持ち歩いています」

兄の秀光さんは震災で若くして亡くなりました。

(秀英さん)
「この茶色い建物が私の実家なんですけど、当時の場所そのままです。 
今は3階建てになってますけど、当時は2階建て。震災があって2階が南にずれた。1階の家に乗ったんです」

(秀英さん)
「車用のジャッキとかで家を上げたり、隙間を空けて探して、がれきをまたどけて、やっと見つけました。
忘れないですね。見つけた時の瞬間は忘れないですね」

震災で崔さん一家が住んでいた神戸市須磨区千歳町では、47人の犠牲者が出ました。

崔さんの家も倒壊。敏夫さんと秀英さんは2階で寝ていたため無事でしたが、秀光さんは1階で建物の下敷きになり、帰らぬ人となりました。

秀光さんは当時20歳。成人式に参加するため、東京の大学から神戸に帰省していました。

(敏夫さん)
「左半分はものすごくきれい。右半分はどす黒い紫でうっ血している。 
それを見た途端、涙が出て涙が出て、こらえようと思ってもこらえることができない。次から次に涙が出てくる」

出かける時は家族全員一緒。毎年旅行にも行くなど仲が良かった崔さん一家。中でも秀光さんは正義感が強く、頼りになる存在でした。

(秀英さん)
「よくケンカして帰ってきてました。負けずに帰ってきて、その上、勉強がすごくできて成績優秀だった。
僕からするとすごくかっこいい兄でした」

震災で息子を失った敏夫さんは、災害時に自分の命を守ってほしいという思いから、これまで、若い世代に経験を語り継いできました。

(敏夫さん)
「地域住民といざという時にどのような対応をすればいいか真剣に感じている。
君たちが親と一緒に行動してくれたらすごい助かる。君らが大きい力になるし、原動力になると思う」

そんな父も82歳。秀英さんは父が高齢になり、兄を失った悔しさや震災の恐ろしさを自らも伝えようと思うようになりました。

今度は自分の番です。

(秀英さん)
「亡くなった兄のためにというのが一番大きかったと思うんですけど、(父が)高齢なので、82歳になって昔元気だった父を見ながら、最近はしんどそうな姿をよく見るんで。いよいよ動き出さないといけないなと思った」

親子での講演の依頼を受けた2人。秀英さんは直前まで何を話すべきか悩んでいました。

(秀英さん)
「寝れてないですね。朝、きょう4時に起きたんで。そういう性格です。
寝れないんですよ、そういう前日って。緊張すると思うんですけど何とかできると思います」

(敏夫さん)
「秀英が思っていることを素直に述べたらそれでええんちゃうかな」

(秀英さん)
「ヒョンニン(兄)の分まで頑張りますので見ていてください。行ってきます」

秀英さんにとって初めての講演会。およそ40人の大学生を前に話します。

始めに、敏夫さんが変わらぬ震災への思いを伝えます。

(敏夫さん)
「本当に震災の怖さ、恐ろしさ、そういうものを分かってほしい。
恐ろしい、怖い、知るべきである。それから出発してほしい」

(秀英さん)
「皆さまお疲れさまです。こうやって皆さんの前でお話しすることは初めてなのですごい緊張しております。
まさか兄が亡くなるとは思わなかったですし、まさか大きな地震が兵庫県で発生すると思わなかった。
逃げ遅れてまだ生きている方が助けを求めていましたが、火が回り、水も出ず、助けることができず、そのまま亡くなる方を目の前で見ました。本当につらかったです。
何よりも兄を亡くしたことが一番辛かったですし、これからどうやって生きていけばいいのかなと毎日泣きながら過ごしました」

震災を経験していない学生たちに命の尊さを熱く語りかけます。

(秀英さん)
「あの時やっておけばよかった、あの時声を掛けていればよかった、あの時連絡しておけばよかった。
後悔するんだったら、行動して後悔しましょう。やってから後悔しましょう、時間は戻ってきません。命は戻ってきません」

(参加した学生)
「亡くなった人の話を聞く機会が今までなくて、今回講義を聞くことができて良かったと思います」
「崔さんのような人に、積極的に活動してなっていきたいと思いました」

(秀英さん)
「伝えることって簡単じゃないと思います。自分の思いをそのまま話した。
いい話ができたかは分からないですけれど、素直に自分の気持ちを伝えることができたのではないかと思います」

(敏夫さん)
「十分やっていけると思う。私よりうまいかもわからん。私がアドバイスするようなことはない。十分、大丈夫」
(秀英さん)
「アドバイスがほしいねん、俺は」

神戸市長田区にある西神戸朝鮮初級学校。震災の発生後に、崔さん一家はここで避難生活を送りました。

秀光さんの遺体も運び込まれ、教室で葬儀をとり行いました。家族で最後の時間を過ごした場所です。

(秀英さん)
「ここ、真ん中に兄の遺体。ちゃんとしたものはなかったので、布団引いて寝かしている状況でした。
棺桶のサイズが小さくて、泣きながら無理やり入れた記憶があります。かわいそうでしたね」

この学校には、秀英さんの三男・翔貴君(11)が通っています。

(秀英さん)
「ここでパパが寝とってん」
(翔貴くん)
「こんな狭いところで?」
(秀英さん)
「その時、水も出ないし、電気もないし。
(飲み物は?)飲むものなかった。全国から救援物資が届いたから、みんなで分けて食べて飲んでしてた。
結構つらいで。翔貴できないでしょ」
(翔貴くん)
「うん、無理」

秀英さんはこの日、初めて避難生活について息子に伝えました。

(翔貴くん)
「電気とか無かったら夜どうしてたの?」
(秀英さん)
「ろうそくや、ろうそく。ろうそく立てて。
最初は余震が来たらみんな外に出て、廊下や運動場に出たりしとったもん。だから夜も寝られへん、ずっと」

(秀英さん)
「翔貴に話できてよかった。知らんかったもんね。
翔貴もこれからちょっとずつ勉強していかなな。聞く機会ないもんね」

この日は枚方市で講演です。初めて県外で、ひとりで語ります。

(司会)「舞台向かって右側から崔秀英さんです」
(秀英さん)「よろしくお願いします」

今回は震災当時を知る人たちも多くいました。29年たっても決して消えることのない記憶を語ります。

(秀英さん)
「自宅は全壊全焼。震災当日から家も無くなって、行くところもない。
周りは火の海でした。地域すべてがつぶれて燃え、消防隊は水が出ないホースを持ちながら立ち尽くしていました。
…この目で見ました」

そして、活動にかける思いを伝えます。

(秀英さん)
「震災で一番感じたことは、『人の命とは』です。
兄を亡くして思いました。人間はいつ死ぬか分からないなって。人間の寿命は決まってるんだなって。
いつ何が起こるか分からない。それを17歳の時に感じました。
成功するか失敗するかは分からないですけど、チャレンジは必要だと思います。
今ある当たり前の環境に対して周りで支えてくれる方が必ずいます。
私も、父と同じように震災について語り継ぐこと、当時助けてくれた方々への感謝の気持ちを忘れずに、自分の経験談が誰かのためになり、勇気になればと思います」

(来場者)
「泣けました」
「人間は強いなと思いましたし、感動しました」
「先のことを考えるより、今のことを考えて万全の体制をとるということが大切。それを地域の方に話をしていくというのを聞いてそうだなと」

(秀英さん)
「無事終えれてよかった。兄は自分が亡くなったことを気づいてないんで。
そういう無念な思いもありますし、そういう気持ちを感じながら話をしています」

(秀英さん)「東京の方が寒くない?」
(雄貴さん)「まだ寒くなかったけど兵庫の方が寒いな」
(秀英さん)「兵庫の方が寒い?」
(雄貴さん)「うん」

秀英さんの長男、雄貴さん(19)。

秀英さんや、亡くなった秀光さんも通っていた、東京にある朝鮮大学校の1年生です。学校が冬休みに入り、およそ5カ月ぶりに神戸に帰省しました。

(敏夫さん)
「久しぶりやな。夏以来やな、また大きなったんちゃうん。
あんまり大きなったら上見なあかんやんか」

敏夫さんが暮らす実家に秀英さんと雄貴さんが訪れ、この日は3世代が集まりました。

雄貴さんは19歳。おじの秀光さんが震災で亡くなったのは、今の自分よりひとつだけ上の20歳です。

(雄貴さん)
「20歳と言ったら社会に出る準備、一番難しいですけど楽しい時期というか。
自分も大学に通ってめちゃくちゃ楽しいですし、実際そうなったら(亡くなったら)怖いというか、この年代で亡くなるのは悔しい」
(敏夫さん)
「見てないようだけどよく見てる。私がやっていることとか、お父さんがやっていることとか」

祖父・敏夫さんから語り部としての思いを受け継いだ父の思いに触れました。

(雄貴さん)
「自分が今後語り部とか今は思ってないですけど、そういう活動は自分でもしていかないといけないと思うし、知らない人がいっぱいいると思うので、こういうのを伝えていかないといけないので、自分で行動すべきだといろいろ思う」

(秀英さん)
「その日は東京で感じてくれたら」
(敏夫さん)
「1月17日を忘れんと、自分で黙とう捧げるとか。
今の自分の判断で何をすべきか自分で考えてくれたら、サムチョン(叔父)も喜んでくれるから」

あの日から29年。

「息子のために何ができるのか」、その一心でこの29年の日々を生きてきた敏夫さん。秀英さんに思いを託します。

(敏夫さん)
「息子のためというのが一番。息子の無念さを忘れない。
ずっと続けてほしいな。私はあと何年できるか分からないけれど、期待しているよ」

(秀英さん)
「父の意思を継いでできる限りやります。
厳しい兄だったので、褒めてくれつつ、まだまだやることはあるんじゃないかと思ってるんじゃないでしょうか」

父親の思いを受け継いでまもなく1年。秀英さんはこれからも、兄が生きた証を後世に語り継いでいきます。

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