【特集】証言1.17 孤高の駐在カメラマン~現場にテレビカメラは1人だけ…阪神淡路大震災 淡路島の記録~

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阪神淡路大震災30年に向けて不定期で放送するシリーズ 証言1.17。

1回目は、サンテレビ淡路総局 神子素孝輝(みこそたかき)カメラマンです。駐在カメラマンとしてどこよりも早く被災地を撮影した神子素カメラマンの記録と証言です.

 

生き埋めになり救出を求める男性(旧北淡町)

1995年1月17日のサンテレビ震災報道特別番組

アナウンサー

「神子素さん、すごい現場を見てこられたわけですよね」

神子素カメラマン

「顔と手だけが出ていましてね。それで今救出作業をしているところなんです」

アナウンサー

「これは神子素さんいつごろの映像ですか?」

神子素カメラマン

「これは午前10時ごろですね」

アナウンサー

「うわ…。これは…(絶句する)」

 

神子素カメラマン

サンテレビ淡路総局の駐在カメラマン神子素孝輝さん(79)。

神子素カメラマン

「カメラ回そうか回さないかというような感じやったんやけども、これは絶対に撮っておかないと将来的に残さないかんと。2022年11月震災映像のアーカイブに携わる神戸大学大学院のチームと合同で、神子素カメラマンに震災映像の聞き取り調査を行いました」

 

神子素カメラマン

「僕のおじいさんからね、地震があれば津波が来るというのを僕は聞いていたんですね。

地震が来たら津波が来るので、まず海の水が引いてしまうと」

 

1995年1月17日、午前5時46分に発生した阪神淡路大震災。発災直後、洲本市では小雨やみぞれが降っていました。海の様子を見て津波がないと判断し、向かったのは震源地とは真逆の方向でした。道路が通行止めになったという情報から、(当時)緑町(淡路島南部の南あわじ市)に駆けつけましたが、神戸新聞淡路総局から新たな情報が入りました。

 

神子素カメラマン

「緑町で取材をしている時に(携帯)電話があって北淡(淡路島北部)の方で家がつぶれていると」

 

旧緑町(南あわじ市)⇒洲本市⇒旧一宮町(淡路市)へ移動

旧一宮町(淡路市)の被害 1995年1月17日午前7時半~8時ごろ

進路を変えて北上し旧一宮町に入ると辺りの光景が一変します。

 

神子素カメラマン

「もう向こうに歩いて行けなかった。ここは通行止めになっていた」

 

旧一宮町の中心街の郡家地区は、木造家屋が倒壊するなど被害が大きかった地域です。神子素カメラマンは、住民から情報を集めながら被災状況を撮影しました。

 

住民

「まだな。埋まっている人がおるし」

神子素カメラマン 

「埋まっているんですか?」

 

外に出られなくなった高齢女性がいると聞いて駆け付けると、地域の住民や消防団が女性を助け出そうとしていました。

女性が救出される様子(旧一宮町郡家)

 

「せえの。足持てよ。大丈夫や大丈夫や。役場行こう。おばちゃん頑張れよ」

 

救出現場も、商店街も光景は、道路が整備されるなど大きく変わりました。当時、インタビューした住民の家族に話を聞きました。

 

住民

「寒かったな。着の身着のままで外に出ている人もいたな。うちら(私たち)は一旦外に出たけど、また家の中に入ってすぐ服を取ってきた」

神子素カメラマン

「それが危ないんや」

住民

「危ないのが分かっていても、子どもに着せておかないと。薄いパジャマを着ているから」

 

野島断層がある旧北淡町へ 

(当時)北淡町消防団分団長 高田一夫さん

さらに北上し、旧北淡町室津地区に到着した午前9時前、雨まじりの雪がちらついていました。

 

住民

「雪が降ってきた。浅野と富島がひどいって言っていたな」

 

旧北淡町では、町内の建物の9割が倒壊または損壊。野島断層のある富島地区にたどり着くと木造家屋は壊滅状態でした。

 

(当時)北淡町消防団分団長 高田一夫さん

「(Q被害状況は)ほんまにこの旧道はどこも全壊ですわ。死者がだいぶ出て。今も建設業組合からショベルカーを出してもらったんやけどな。もう触れられない状態で。今も1人亡くなったからな。ちょっと役場の方へ。安置場所を」

 

当時、北淡町消防団の分団長を務めた高田一夫さん。富島地区で和菓子を販売しています。

 

高田さん

「当時淡路島は救急車が7台くらいしかなくて。みんな間に合わなくて。消防団の団長さんがああしろ、こうしろという指示なしで搬送した。

神子素さん早かったもんね。他の放送局全然まだ来ていない時に駆けつけた」

 

発災直後の旧北淡町 テレビカメラマンは1人だけ… 

旧北淡町の救出現場

  

旧一宮町には他局のテレビカメラも駆けつけていましたが、この映像は、発災直後の旧北淡町をとらえた唯一の記録映像となりました。

 

生き埋めになった男性の救出活動

消防団員

「おっちゃん、下向いとれよ。目をつむっとけよ。下向いとけ」

神子素カメラマン

「その下におるのか?」

消防団員

「おう。ここに見えとる。この棒のところや。頭が見えとる」

生き埋めになった男性に話を聞く消防団員

「おばちゃんはこっちか?(おばちゃんはまだ家の)中におるんやな」

(当時)北淡町富島地区消防団第3部長 西條和明さん

富島地区は区画整理が行われ、道幅が広くなり今では当時の町の面影はありません。当時の場所で

聞き取り調査をしていたところ、富島地区の消防団員だった男性に偶然出あいました。

 

「(地域の住民は)どこに誰がおるかは分かっとる。寝ているところもな。大体はみんなその地区の人は大体この人はここの家ではどの部屋で寝ているいうのは分かっている」

 

淡路島では普段からの近所付き合いによる地域コミュニティーや、消防団が力を発揮。昼過ぎには全員が救出されました。

 

その後、西海岸を北上し旧淡路町へ。東海岸を南下し、旧東浦町の被災地を撮影しました。

当時車に積み込んでいたのは、テープ4本とバッテリー4つだけ。撮影できる尺(時間)は限られていました。

 

神子素カメラマン

「その時心配やったのが昔はβカムだったので1本20分しか撮れないので、本当はもっともっと回したかったんだけども、バッテリーもないし、それが頭にあってちょっとずつちょっとずつ撮影した」

 

神子素カメラマンはテープ4本を抱えて、洲本港から船で神戸・中突堤まで移動し、サンテレビ本社にたどり着きました。

 

サンテレビのスタジオで話す神子素カメラマン

「午後2時にやっと高速艇が来られるようになった。それからサンテレビ本社まで歩いて来ました」

 

淡路島では震災で62人が亡くなりました。79歳で現在も現役の神子素カメラマンは、この28年間、淡路島の復興の歩みを記録し続けてきました。

 

Q記録が残っていくことについては

「将来のことを考えれば必ず残していかんとだめやなと僕は思っています」

 

サンテレビでは、防災教育や研究に役立ててもらおうと、神戸大学大学院人文学研究科と

震災文庫とともに、2020年から神戸大学付属図書館震災文庫でサンテレビの震災映像のデジタルアーカイブに取り組んでいます。

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