東日本大震災の新証言 ~約40年前に存在した避難場所を創る会~

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東日本大震災の新証言です。津波で418人が犠牲になった宮城県石巻市大川地区。今から約40年前、住民によって避難場所を造る会が存在しました。これまで世の中に明らかにされてこなかった男性の証言を神戸のサンテレビが取材しました。

宮城県石巻市大川地区。東日本大震災の後、大部分が災害危険区域として居住が禁止されています。震災の1年前、北上川沿いの長面地区に自分で高台をつくり始めた住民がいます。永沼英夫さん(81)。復興事業の残土を業者から分けてもらって土を盛り、高台づくりに全財産をつぎ込みました。永沼さんは、津波で亡くなった人や裁判のことを配慮して、これまで世の中に明かさなかったことがあります。

【永沼英夫さん】
「まぁ10年過ぎたからさ。このままにしておくのもちょっと問題だなってことで。私は世の中にね。事実を知らせた方がいいだろうと思って」

津波で自宅と仕事場が全壊しましたが、震災の日は別の場所にいて無事でした。現在は復興公営住宅で暮らしています。ひとり暮らしで子どもはおらず、芸術家・永沼鴻雲としても活躍しています。

永沼さんは、津波で児童や教職員ら84人が犠牲になった旧大川小学校の卒業生です。

【永沼さん】
「津波から子どもたちを救いたかった」

海から約3.7キロの小学校(当時のハザードマップでは浸水想定外区域)。

教師らが避難を開始したのは地震発生の約50分後で、目指したのは、川沿いの三角地帯でした。避難開始直後、児童たちは、川と海の方向から襲った津波に巻き込まれました。生き残ったのは、児童4人と教員1人だけ。小学校のそばには児童たちがシイタケ栽培を行っていた裏山が存在しました。

津波で父・妻・娘を亡くした遺族の只野英昭さん。息子の哲也さん(当時小学5年生)は奇跡的に一命を取り留めましたが、娘の未㮈さん(当時小学3年生)が亡くなりました。

【只野英昭さん】
「泣きながら山だと訴えていた子どもたちの証言も市の対応ではなかったことにされたりしたもんですから、遺族はやっぱり怒っちゃって。何したいんだって。
あの日の子どもたちをどうすれば助けることができたのかっていうのをちゃんと調べていかないといけない立場の人たちが隠蔽工作。証言捏造。もう散々されたもんですから。やっぱりこれは改めてもらわないとならない」

なぜ避難が遅れて川に向かったのか?子どもたちの聞き取りメモが廃棄されるなど、市の教育委員会の説明は矛盾だらけ。第三者委員会による検証が行われましたが、遺族の求める情報を明らかにすることができませんでした。

【只野さん】
「二度と繰り返してはいけない大川小の事案のはずなのに、本当の真相は何だったのかと。ふたをするように動いてくる方々。その行為そのものが繰り返すことになるんだよということを気づいてほしいんですよ」

真実を求めて遺族は市と県を相手取り、裁判を起こしました。裏山への避難が可能だったとして、現場の過失を認められた一審に続いて、二審の仙台高裁も遺族側が勝訴。市教委や学校が適切な避難場所を決めて訓練し、事前の防災対策をしていれば避難が可能だったと判断されるも、遺族が求めた真実は明らかになりませんでした。

このほかにも、この裁判でも第三者検証委員会でも明かされていない約40年前の過去があると言います。

【永沼さん】
「長面(ながつら)の林道のはたに避難場所をつくれば、間違いなく旧大川地区全部つくるから。私は知り合いの人たちにそういう話をしていたから」

津波の危険性を訴える永沼さんが提案し、長面地区の住民約40人が参加した山に避難場所を造る会(通称:長面を住み良くする会)の存在です。

しかし、「津波は来ないから大丈夫だから」と、農地の基盤整備を行う農業者の団体「土地改良区」が会を解散させたと主張します。
 
【永沼さん】
「土地改良区は津波が来るってことになると(農地の)基盤整備ができないからやつをつぶすと。つぶすために入り口に施設をつくり、うちの土地を占拠しちゃったわけです」
 
1981年、当時の大川土地改良区は、永沼さんが所有する土地の一部に許可なく田畑に水を送る揚水機場を着工し、翌年に完成。自分の土地だと主張する永沼さんに対して、他人の土地を自分の土地だと言い張る人だとレッテルを張ったと主張します。
 
【永沼さん】
「あー、村八分になりましたよ。やつは何するか分かんねぇからって。ろくでもねえからって」
 
【高橋さん】
「村八分じゃなくて、全面的に人格を拒否したというわけですよ。(永沼さん自身を)あれはもう変わり者だから相手にしちゃだめですよって。村八分どころじゃないんですよね。もう相手にしちゃだめだからって」
 
その後の国土調査で、揚水機場の土地の一部は永沼さんの土地だったことが判明しました。
 
大川小の第三者検証委員会の委員長を務めた神戸大学名誉教授・兵庫県立大学名誉教授の室崎益輝さん。避難場所を造る会の存在について伝えました。
 
【室崎益輝さん】
「だからこういうのもね。直後にどんどん言っていただかないといけない。(事前に報告があれば)報告書に載っていると思いますよ。そういう証言があったと。我々がこういう人たちにつながりえなかった」
 
大川小学校の裁判をめぐった映画「生きる」の舞台あいさつで神戸を訪れた遺族側の代理人・吉岡和弘弁護士は。
 
【吉岡和弘弁護士】
「(避難場所を造る会の存在は)いや。知らないですね。そういうあれ(会)がありましたか」
Q避難場所が明確に定められていれば結果が違ったのではないか
「もちろんそうですよ。教頭もそれがなかったために、右往左往してしまったんだと思う」
 
会が存在したと証言する人がもうひとりいます。遺族の只野さんです。
 
Q山に避難場所を造る会があったことについて
【只野さん】
「一応検証しているので全部を把握しています。(知ったのは)後からですけどね。かつてそういう話があって年配の方からも話を聞いています。地区住民の方からの聞き取りも全部しているので」
【永沼さん】
「改良区と争ったんだけどさ」
【只野さん】
「そういうところもちゃんと伝えていかなきゃいけないんですね。かつてそうやって頑張った年配の方々がいて、それができなくて今後に生きないで地区住民の危機感も薄れていた現状の中であの日、事前の防災訓練・マニュアルも整備していなくて、とうとう起きてしまったと。
だからこそ繰り返さないようにしていかないといけないというのも、ちゃんとそこまでしてから伝承だと思うんですね、俺は」
 
命よりも利害関係を優先することを繰り返さないように。永沼さんは、3月10日、宮城県の土地改良事業団体連合会に40年前の情報を提供しました。
 
【永沼さん】
「避難場所をつくっておけば誰も死なずに済んだんだ」
 
合併前の旧大川土地改良区にあたる北上川沿岸土地改良区には、津波は来ないからと会を解散させたことを世の中に明らかにするよう3月10日、意見書を提出しました。しかし、理事長を含めて職員の中に当時を知る人はひとりもいません。
 
【永沼さん】
「新しく入った人たちだからよく分からないのよ。だから私にはなんとも言えないってよ」
 
この件に関してサンテレビは3月13日に取材を申し込みました。3月31日、北上川沿岸土地改良区は、「先日、永沼英夫氏が当改良区に意見書を提出したことについて取材をしたい旨お願いされていましたが、永沼氏とは調停をしていた関係上、弁護士に今後の対応について相談しているところです。今後理事会で検討し、弁護士に相談の上対応していきたいと考えているところですので、取材に関しては暫くお時間をいただきたいと思います」と文書で回答しています。
 
東日本大震災から12年。約10メートルの高台が完成したと聞き、この春、永沼さんと高台を訪れました。
 
【永沼さん】
「うーん。長いね。長かったな」
 
高台は津波が来る前に完成させたかった。40年前、津波の危険性を理解してもらえていたら多くの人が助かったのではないかと悔恨の念を抱き続けています。
 
【永沼さん】
「私がやるべきことをやっていれば死なずに済んだと思うけどね。できなかった」
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