震災の記憶を伝える「神戸ルミナリエ」の代替イベント。
あたたかな光に包まれた会場で訪れた人の話に耳を傾ける1.17希望の架け橋 代表の藤原さんの姿がありました。
【1.17希望の架け橋 代表の藤原祐弥さん】
「震災継承として自分たちより下の世代に僕たち団体として伝えていきたくてその中でもやっぱり震災当時のリアルな声というのをいま集めていまして、震災当時の様子を詳しく教えていただきたい」
藤原さんは、震災で被害の大きかった神戸市長田区で育ちました。
震災について学びたいと、兵庫県立舞子高校の環境防災科に進学。
3年生のとき、「神戸ルミナリエ」の会場で初めて震災について語りました。
【藤原祐弥さん】
「いまは若い世代が観光として訪れていてやっぱり観光目的でも良いんですけど、僕自身この阪神淡路大震災の希望と復興ということを忘れてほしくないと思ってこういう活動をしています」
高校卒業後、2020年10月に自ら「1.17希望の架け橋」を設立。
団体名には、震災の教訓を経験した人からしていない若い世代へつなぎたいという願いが込められています。
【団体メンバーで舞子高校環境防災科の永松采和さん】
もともと舞子高校の環境防災科でたくさん防災を学んでいるうちに
インスタでこの活動を見つけて、パッと出てきたときに先輩だということを知って興味あるなと思って参加しました。
彼らは、震災を経験した人の貴重な話を記録しようと去年初めて動画を制作しました。できあがった動画はSNSで発信していて、再生回数は現在、6800回を超えています。
【藤原さんの祖母・恵美子さん】
【藤原さん】その東落合のときは朝、揺れて?
【藤原さんの祖母 恵美子さん】
「瓦はみんな落ちたな。重たい瓦やったから水は2、3日してから出たから。長田におった、親戚の人らは。みんなお風呂入れて言ってみんな来て」
当時、恵美子さんは神戸市須磨区に住んでいて、自宅は半壊。
家族は無事でしたが、夫の友久さんが創業した建設会社が長田区にあったため、友久さんは居ても立っても居られなかったと言います。
【恵美子さん】
「お父さんが『よう燃えてきよる』と。六間道火事やったやろ。こっちの方に来うへんやろかどないやろと言ってテレビ見ていて『座りいな。どないなるか分からへんのに』って言いよるのに『今から行ってくる』『今から行ったって帰られへんで』と話していた。2、3日してから行ったら私ら長田にずっといたのに分からへんようになっていたわ」
【藤原さん】
「それは火事で焼けて?」
【恵美子さん】
「火事で焼けたり、つぶれたりでな。怖かったな」
震災後、友久さんの建設会社では、がれきの撤去作業に追われました。
友久さんは同じ被災者として誰よりも寄り添い、何日もかけて作業にあたったと言います。
しかし、病気で亡くなったため、藤原さんは友久さんから話を直接聞くことはできませんでした。
【藤原さん】
「自分にとって一番大事な存在やし、一番かわいがってもらっていたので今でも一番自分の尊敬する人でもあり一番大好きなおじいちゃんですね」
藤原さんは、いま、友久さんが創業した建設会社で働いています。
被災者のために尽力した友久さんの背中を追いかけたいと考えたのです。
仕事では、現場監督の役目を担う藤原さん。
時間を捻出し、ボランティアとして活動を続けています。
この日は福島県から来た高校生に、震災の継承活動を行う先輩として思いを語りました。
【藤原さん】
「自分たち自身経験していないからこそ全てが新鮮なことに聞こえていて、震災を経験した人というのは全員が全員同じ経験ではなくて一人一人の震災経験談というのがあるので、自分の友達が亡くなったとかというのを涙ながらに言われたときはすごい自分の中でグッとくるものがあったし、この人の涙というのを無駄にしたくないなと僕は思いました」
「1.17希望の架け橋」を立ち上げておよそ2年。
今度は、自分たちの次の世代に震災と向き合ってもらうためにはどうすればいいのか。大きな壁に直面していました。
【藤原さん】
「動画はその人の口調とか言動とかでそのまま伝える良い手段かなと」
【メンバー】
「そのテーマを決めるのがいま苦戦中。パーンと載せられるテーマが…」
【メンバー】
「見てもらって終わりでいいってこと?なんて話をさっきしていて、事実を伝えて見てもらった人が『あ、そういうことがあったんや』って知って…終わりでいいんかなという話をしていた」
【藤原さん】
「目標はそれ以上いきたいけどいままでそういう見る機会もなかったし、震災を知るきっかけもなかったしやから、ちょっと一歩踏み出す感じで見てもらえるだけでもええんかなというのは思う。理想はもっと上やで、上やけど」
経験していない自分たちだからこそできることがある。
彼らはそう信じています。
藤原さんたちは力を借りようと、神戸市の元小学校教員・臼井真さんに声をかけました。
【臼井真さん】
「息があって助けてほしいのにもう助けられないとかそんな話がいっぱいあって私はちょっとの差で命が助かったので本当にあのとき1階でなにかしていたら死んでいたと思うと当日体が夜に震えた。あれしていたら死んでた。その生死を分けたちょっとの差で悔しい中で亡くなられた方が亡くなったのが1月17日」
臼井さんは、教員12年目のときに被災。
傷ついたまちや被災した子どもたちの姿を見てこみ上げてきた思いから「しあわせ運べるように」という歌をつくりました。
この歌は、たくさんの人の心の支えとなり、やがて神戸の復興を願うシンボル曲となりました。
【臼井真さん】
「初めて神戸という響きを聞いただけで胸が痛くなったり街に対する思いとかいろんなものが頭の中でぐるぐる回って鉛筆で『地震にも負けない強い心を持って』と書いて清らかな子どもたちの声であったり子どもたちのピュアな心で歌を歌うとその歌は奇跡のように広がって…」
藤原さんたちは、時を越えて歌い継がれてきたこの曲に込められた思いを受け止めました。
【臼井真さん】
「まずはここに集まられていて架け橋に入って活動しようと思われていることが素晴らしくて、そういう方ってやっぱり数少ないんですよまた一人でも多くの方に伝えてほしいなと思います」
【藤原さん】
「みんな小学校1年生のときから防災教育とか『しあわせ運べるように』とか歌ってきて、みんなやっぱり他人事ではない感じがあってこれから先もどんどん語り継いでいきますので引き続き、よろしくお願いします。
希望の架け橋は、毎年、追悼行事「1.17のつどい」の運営にも携わっています。
この日は、つどいで並べる紙灯籠の制作を来場者に呼び掛けました。
すると、訪れた人たちが自然と彼らにあの日のことを語り始めました。
【訪れた人は―】
「私の勤務していた会社の近くに和菓子屋さんがあったのね。若い夫婦と赤ちゃんと3人家族だったんだけど奥さんと子どもが亡くなった。ご主人だけが無事だった」
「第一回のルミナリエもう忘れられへん。なんも音がしない、誰も話しない。もうシーンと みんな明るい光を見て言葉なくって…こういう活動をぜひ続けてください。よろしくお願いします」
【藤原さん】
「自分たちの思っていることと、震災を経験された方から思っていることというのは、ちょっとギャップというのがあると思うんですけど、震災を経験していない世代が震災について語っていくことについて率直にどう思われているのかな」
【訪れた人は―】
「そうやって伝えていくことは大事なので、若い人たちがこうやってくれるのはすごいうれしいです。どんどん忘れていくので、私たちも忘れてきているのでどんどん伝えていってほしいと思います」
震災を経験した人たちから託された思いを届けるため藤原さんは、子どもたちの前に立ちます。
【藤原さん】
「この経験というのが自分のおばあちゃんの阪神淡路大震災当時の経験談になります。
おばあちゃんは当時神戸市須磨区の東落合というところに住んでいました。
下からドンという大きな音がなって、そこから横揺れ縦揺れもう何分続いたか分からないような大きな揺れが続いたそうです。
自分のおじいちゃんは当時建設会社の社長をしていたので、重機で屋根を一枚めくるとそこに思い出の品、
例えば娘さんからもらった洋服であったり、子どもからもらった手紙おそらく亡くなっていたんだと思いますけど、涙を流しながら探していたそうです。
そういう工事をしているうちに従業員も涙ながらに重機を動かしていたそうです。
きょう来られている中学生の方、また小さい子どもたちの命はもちろんですけど大切な人 家族であったり自分の子ども・兄弟、そういう子たちを少しでも救うためにこの阪神淡路大震災の教訓というのを次世代に伝えていかなければいけないと思っています。
【講演会を聞いた中学生】
「体験した人から話を聞くというのがやっぱり多いんですけど体験していない人から話されるとまた違ったように感じていて自分たちもそういうことを伝えていけるような行動ができたらいいな」
「いまの話を聞いて自分の中での震災の意識が深まったからこれからも震災について意識していこうかなと思いました」
これからも伝える活動をみんな自分たちと一緒に同じ方向を向いていると思うので これからも頑張って活動してほしいなと思います。
一人、また一人と、震災の教訓をつなぐ橋をかける。
藤原さんは、また次の世代へと伝え続けます。