神戸・深江の東洋の魔女の店が閉店 ~喫茶ウィンが40年の歴史に幕~

  • X
  • Facebook
  • LINE

 

神戸市東灘区で営業して約40年。11月末で店じまいをする喫茶店があります。東洋の魔女の店と知られる深江の喫茶ウィンを取材しました。

人気のトンカツ定食

阪神深江駅から徒歩30秒ほどの場所にある喫茶店「ウィン」。人気のトンカツ定食などメニューが豊富で地元の人に愛されてきたお店です。深江では、「東洋の魔女の店」として知られています。

Q.寄るところがなくなったら寂しい
(常連客)
「寂しい。もう有名人だから彼女。魔女ですから」

魔女として有名なこの店の経営者 薄井信子さん(78)。昭和30年代、東洋の魔女として世界を震撼させた女子バレーボールの全日本代表メンバーの1人です。

Qなぜ辞める
(常連客)
「年が年だから」
(薄井さん)
「ピンポーン!ピンポーン!急に言い出した。急に11月に辞めると」

 

薄井信子さん バレーボール教室

現在も神戸のママさんバレーボール教室で指導者を務める薄井さん。選手時代は、岡山県倉敷市を本拠地に活動していたクラボウの実業団バレーボールチームでエースアタッカーとして活躍。全日本のメンバーとしても海外遠征やアジア大会優勝を経験しました。

 

(薄井さん)「この写真はソ連、日ソ戦の時。ソ連に行った時、船の中で練習するんやけどね。もうトゲがいっぱいでね。そんなところでも練習したよ。ソ連のモスクワ行く時かな」

真ん中:背番号4の薄井さん 旧ソ連にて

17歳の時に東京オリンピックの全日本候補選手に。大会直前の21人の最終候補にも残りました。

(薄井さん)
「天皇両陛下が来られて競技をストップしてスタンドみんな全員立って。天皇陛下をお迎えする時に自分のサーブ番やったから印象に残っている」

薄井さんのアタック

金メダルを獲得した1964年の東京オリンピックのメンバーに残ることはできませんでしたが、東洋の魔女として海外遠征に出向き2年後のアジア大会で金メダルを獲得しました。

(薄井さん)
「アジア大会やら国体やら連勝してきている自分の実績、自分の誇りは背中にありますね。ただそれだけです」

アジア大会金メダル

 

写真右:夫 晃三さん 真ん中:父 滋二さん

その後、高校時代に全国制覇を経験した晃三さんと24歳の時に結婚。国体では、夫婦で兵庫県のバレーボールチームの監督を務めました。仲間と語り合える場所が欲しいと考え始めたのが喫茶ウィンでした。しかし…。

 

 

震災で倒壊した喫茶ウィン

1995年1月17日の阪神淡路大震災で自宅と店の両方が全壊。震災の半年後、夫の晃三さんが事故で亡くなりました。

(薄井さん)
「頑張ろうじゃなくてやらないと仕様がなかった。やりましたよ。仕様がなかったから。前に進んで。よー頑張ったかな。ほんまに頑張りました」

 

 

玉造伸子さん(90)

かつてこの店で23年間働き、ウィンの営業再開に尽力した玉造伸子さん(90)です。

(玉造さん)
「この人とやろうよというわけでね。それで始めたんですよ。ウィンつぶれて再開したやん。2人で始めて」
(常連客)
「苦労したんだね」
(玉造さん)
「私この店大好きだからね。このまま本当に続けたいと思いますわ。私が若かったら…」
(薄井さん)
「40年間すごくいろんなことがありました。本当にいろんなことが。震災やらバブルやらバブルがはじけたり。店を経営していく上にもいろいろ大変な時期もあった」

 

従業員と薄井さん

震災を乗り越え、地元の人たちに40年愛されてきましたが、東洋の魔女も78歳。体力の衰えもあり、店じまいを決断しました。

(薄井さん)
「古い古い仲間たち。なんか言うたって。なんで私は辞めるん?」
(従業員)
「体ががたがたで。辞めたくないんですけど閉められると。でも考えていてね。本当に伝統あるこの店の最後にこうしていさせていただいている。幸せだなって」
(薄井さん)
「うーん。ええこと言うな~」
(従業員)
「この最後のメンバーに入れさせていただいたというのがうれしいです。ママ」
(薄井さん)
「ありがとう」
(従業員)
「ママがいい人だから長く勤められて」
(薄井さん)
「泣いてよ 泣いて」
(従業員)
「楽しかったです」
(薄井さん)
「ね。こないして言ってもらえて惜しまれて辞めてちょっと寂しいところもある」

 

阪神深江駅前 喫茶ウィン

薄井さん
「40年近く、深江のこの神社の前で喫茶店。神社やいろんな行事がある度にここで使っていただきいろいろと長い間ありがとうございました」

 

おともだち登録するだけ! LINEでニュースを読もう! ともだち登録をする 毎週配信(月・火・金) 1回で8記事をダイジェスト形式で配信。