2022年04月22日(金曜日) 18:46 事件・事故報道特集・ドキュメント

「あの日の経験を歌い継ぐ」 JR福知山線脱線事故で負傷した男性の17年

伊丹市役所で勤務する山下亮輔さん(35)。
山下さん「政策室という仕事なんですけど、いろんな政策立案した企画を調整する部署で、それ以外にふるさと納税の担当業務もあるのでそういった仕事もしています」

山下さんは17年前、JR福知山線脱線事故に巻き込まれた一人です。

2005年4月25日午前9時18分ごろ、塚口―尼崎間で、制限速度を大幅に超え走行していた快速列車が脱線し、マンションに衝突。乗客と運転士合わせて107人が死亡、562人が重軽傷を負いました。
山下さんは、当時大学1年生。大阪府内の大学に通うため、先頭車両に乗っていました。

山下さん「スピードが速い路線で揺れは元々あったんですね。あまり気にせずつり革を持って、本を見ながら音楽を聞いて好きな事をしていたんですけど、どんどん電車が揺れていって。なんとかつり革を持って耐えてはいたんですけど、窓ガラスに手をついて、それでも電車が倒れていく。地面がどんどん下からせりあがってくるというか、窓と地面が接触したタイミングでそこから覚えていない。気づいたら真っ暗の中に閉じ込められていた」

先頭車両は、マンション1階の駐車場に突っ込み、後ろの車両に押しつぶされました。
暗闇から山下さんが救出されたのは、事故から18時間後のことでした。

山下さん「体を機械でつり上げることになって、挟まっているので引っ張ると足がちぎれるような痛みがあった。出た瞬間に挟まった足にたまっていた毒素、血が一気に全身をめぐってすぐに意識を失った」

山下さんは、長時間下半身が圧迫されたことによる「クラッシュ症候群」と診断されました。
両足の筋肉が壊死してしまい、装具を着け、杖が必要な生活を余儀なくされました。
山下さん「(階段を)上がったり下がったりする時は(杖を)使いますけど、室内では使わないようにしている」

10カ月間の入院を経て、事故の翌年復学した山下さん。
しかし、以前のような暮らしに戻るわけではありませんでした。

山下さん「復学して最初にぶつかったのが、自分が障害者で杖をつく事がコンプレックスだった時期があって。ずっと下を向いて歩いていたんですけど、そうしていると誰も人って寄ってこなくて。それじゃ駄目だと思って、授業で隣になった人に声を掛けるようにしたり、そうしているとどんどん友達が増えていって、一緒に旅行に行く仲間が増えたりしたので、そこから足の事は考えることはなくなった」

大学生活を終え、人のために仕事がしたいと、就職先は生まれ育った伊丹の市役所を選びました。
そして、仕事の傍ら、事故を経て自ら作詞した曲を歌い、その経験を伝える活動を続けています。

音楽は、リハビリ中の自分を励ましてくれたかけがえのない存在でした。
今月17日には、コロナ禍で3年ぶりの開催となった追悼コンサートのステージに立ちました。
あの日からまもなく17年。

山下さん「走ったり跳んだりできなくても、自分の好きな事はできると気持ちを切り替えてからは悔しさはなくなった。事故をきっかけに自分がどう前向きに変わったのかという体験をいろんな手法で伝えたいと思っていて、それは18、19年、その先も変わらないかな。

もちろん自分のできる範囲で思いを伝える場があれば積極的に参加したり、伝えていきたいと思っています」

山下さんは、今の自分を受け止めています。
その足で走れなくても、跳べなくても。

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