2022年01月19日(水曜日) 17:04 事件・事故地域・まち

被災局サンテレビの記録 阪神淡路大震災27年

  • 1995年1月17日 神戸市東灘区

  • 1995年1月17日 神戸市長田区

  • 1995年1月17日 神戸市中央区 当時の中央市民病院

  • 神戸市灘区 阪神大石駅付近

  • 1995年1月17日 旧北淡町

  • 消防庁や兵庫県などのまとめ

  • 電話を待つ人々

  • 避難所の様子

神戸のサンテレビが記録した阪神淡路大震災の記録映像です。震災を経験し、精神的なストレスを感じる方は視聴をお控えください。一方で、阪神淡路大震災の記憶がない方や震災を知らないという方はぜひご覧いただき、次の災害に備えていただけたらと思います。

1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするM7.3の地震が発生し、阪神地域や淡路島で震度7の揺れが襲いました。住宅10万4906棟が全壊。14万4274棟が半壊しました。6434人が亡くなり、3人が行方不明です。重傷1万683人。中でも古い木造家屋の倒壊が目立ち、1996年の当時の厚生省の調査では、関連死を除いた死因の約8割が圧死や窒息死でした。

293件の火災が発生し、約84万平方メートルが焼損。神戸市で焼失した6965棟のうち7割(4759棟)が長田区でした。1945年の神戸空襲で市街地の8割が焼失しましたが、長田区では一部、被害を免れた地域がありました。区画整理が遅れ、木造家屋が密集。空襲から50年後の阪神淡路大震災で火が広がりました。消防車が到着しても、水が出なかったり、消火栓が壊れたり、防火水槽の水がなくなったりして、延焼を食い止めることができませんでした。生き残った人が助けを求める一方、各地で火が迫っていました。住民が消火器やバケツリレーで火を消そうとする姿も。全国各地の消防から応援が駆け付け、消火にあたりましたが、鎮火まで2日かかりました。

当時の神戸市立中央市民病院の様子です。電気もつかず、野戦病院と化しました。病棟の外でも、心肺蘇生が行われていました。病棟の5階部分が崩れた長田区の西市民病院です。市民の命を守る病院である一方、救助を求める立場にもなりました。淡路島の重傷患者が搬送された県立淡路病院。栗栖茂医師が撮影した映像では、当時の外科部長が優先順位をつけた治療「トリアージ」を決断した様子が記録されています。

救急車や消防車の行く手を阻んだのが、道路の亀裂や、液状化、橋の崩落です。約635メートルにわたって横倒しになった阪神高速道路。阪神高速道路は3号神戸線と5号湾岸線の5カ所で橋げたが落ちたり、支柱が壊れたりしました。世界が誇る耐震設計の新幹線をはじめ、JRの在来線、阪急、阪神などの私鉄のほとんどが被害に。阪神間の大動脈は完全に断ち切られてしまいました。バスと電車を乗り継いでの代替輸送。神戸と大阪の往来は、船で向かう海のルートと新神戸から鉄道やバスで山側を迂回するルートも代替手段でした。

震源地となった淡路島。死者は旧北淡町39人。旧一宮町13人。旧津名町5人。旧淡路町1人。洲本市4人。中でも旧北淡町では、まちの9割の家屋が倒壊または損壊しました。淡路市では、誰がどの部屋で寝ているかを近所の人が把握していた地域コミュニティーが災害時に力を発揮。住民と消防団によって、昼過ぎには生き埋めになった人が全員発見されました。

神戸市では4564人(東灘区1469人 灘区933人 長田区919人 兵庫区554人 須磨区399人 中央区243人 垂水区25人 北区13人 西区9人)が死亡。2人が行方不明です。
西宮市では1126人が死亡。1人が行方不明です。県内の死者は、芦屋市443人。宝塚市117人。尼崎市49人。伊丹市22人。明石市11人。川西市4人。加古川市2人。高砂市1人。三木市1人。大阪府で31人。京都府で1人が亡くなりました。
※死者数は、県と市や町の発表が異なることもあり、2006年の消防庁の確定報と兵庫県の発表に基づいて表記しています。

ライフラインは寸断。被害の大きかった地域では、電気やガス、水道が使えなくなりました。兵庫県の調べでは、電復旧まで電気は6日(倒壊家屋などを除く)。ガスは84日(倒壊家屋などを除く)、水道90日(全戸通水完了)、電話14日(倒壊家屋などを除く)かかりました。地震の後、多くの人が着の身着のまま避難しました。凍える冬。約30万人が学校の体育館や公民館に避難しました。避難所ではインフルエンザや風邪がまん延。呼吸器疾患で約300人が亡くなりました。当たり前に存在したものが当たり前ではなくなりました。電話もなかなかつながらず、家族が生きているかどうかさえ、分からない日が続きました。

各地で仮設住宅が設けられましたが、入居者がゼロになるまで5年かかりました。仮設や復興住宅での孤独死が、社会問題となりました。発災から1年間で支援に携わったボランティアは、のべ138万人。1995年はボランティア元年と呼ばれ、心のケアなど被災者を支えました。災害は繰り返され、神戸は他の被災地を支援する立場にもなりました。そして私たちも 次の災害に備えなければいけません。

※この動画は、2022年1月17日に「バトン1.17~震災27年のメッセージ」で放送されたものです。番組は、アーカイブとして配信し、視聴いただけます。https://www.youtube.com/watch?v=zX4S3ANyCxs

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