2021年12月、全国の被災地で教訓を伝えている語り部たちのシンポジウムが神戸市と淡路市で開かれました。語り継いで受け継ぐ。シンポジウムのテーマは、2代目の語り部です。
僕たちが1つの懸け橋に 明石寛成さん(27)
【明石寛成さん(27)】
「つなぐということはとても難しいことですし、それをずっとつなげていくということは、平成から令和の時代に生まれた僕たちが1つの懸け橋になれればなと思っています」
神戸市兵庫区出身で、済鱗寺の副住職 明石寛成さん(27)。父が住職を務めるお寺が、阪神淡路大震災で全壊しました。
【父 明石和成さん(69)】
「1歳未満ですから次の日が誕生日でしたから、助けられた命。息子も含めてそれがあるんだということが1つですよね」
震災の翌日が1歳の誕生日だった寛成さん。父和成さんに抱えられ ベッドの下で身を守りました。
【父 和成さん】
「地震が起きる前に、実を言うとネズミに起こされてしまっている。ネズミは予知能力を感知する。地震やっていうのを先に感じている。長い棒でも持って天井突っついたろうかなと思った時にドンドンドンと来たわけです。家具が落ちてきましたね。その時に支えて火事場の馬鹿力みたいなものです」
父からは、被災者の炊き出しを行ったことや、全国から743人の僧侶が集まった慰霊行脚を企画した話をよく聞いていました。
【明石寛成さん】
「あまり直接父から普段の生活の中でこうしなさい、こうしなければならない。それこそ語り継ぎなさい、こんな話があったんだみたいなことを上から言われることはほとんどない」
父の震災経験を生徒たちに語り継いでいく
父の和成さんが、この27年間、月に1度訪れている場所があります。長田区に住む新川愛さんです。
【明石和成さん】
「この子から電話がかかってきてたまたま財布の中に私の名刺を持っとって。名刺に電話番号があって家がつぶれたからって。蓮池小学校やったな」
当時19歳の大学生だった新川さん。高校生の弟と母、祖母と4人暮らしでしたが、家が全壊し、1階で寝ていた母、三上恵子さん(56)と祖母、三上菊江さん(87)が亡くなりました。生き残ったのは、新川さんと高校生の弟だけ。助けを求めた先がお寺の住職でした。
【新川愛さん】
「全部がれきになっているところに来てくださって」
倒壊した家の前で明石さんは地面に線香を立ててお経を読みました。
【新川さん】
「拝んでもらった時にほんまにあーやっとこれで1つ、一息ついたなとありがたいなと思ったのを覚えていて。その時はまだ子どもで住職が来てくれて安心するわと思っていて。ありがとうございました。その節は」
【明石和成さん】
「いや、もう特にこの子の場合はお母ちゃんとおばあちゃんが亡くなったからね」
寛成さんは、京都市左京区の東山中学と高校で、非常勤講師として宗教を教えています。震災の日が近づくと、生徒たちに自らがボランティアに参加している新長田の追悼行事の話を語ります。
【明石寛成さん】
「先生もほとんど記憶がありません。この活動を先生のお父さんがしていたので、ずっとくっついていってその中でいろいろなことを先生も聞いてきました。今度は先生からいったらお父さん、もしくは震災を経験した人たちがいろいろな話をしてくださったのを先生が1つ灯を分けてもらって、それを別の人に分けていくということをずっと活動しています」
ライブ配信アプリで震災を伝える 米山未来さん(27)
そして、もう1人の語り部が。
【米山未来さん】
「1階で寝ていた僕の頭にたんすが倒れてきました。お父さんとお母さんが僕を抱きかかえて、まさき、目を開けてくれ。まさき」
2年前からライブ配信アプリで「語り部のたまご」として震災を伝えている米山未来さん(27)。未来さんが住んでいた淡路島の旧北淡町では、家屋の9割が被害にあい、39人が亡くなりました。地元の住民や消防団が一致団結して救助活動を行った地域です。未来さんは当時生後2カ月で、当時の記憶はありません。父は、旧北淡町の消防団員だった米山正幸さん(55)。
【米山正幸さん】
「私は当日2カ月の娘と間に女房とベッドに川の字で寝ていました」
現在は、阪神淡路大震災の時にずれた野島断層が保存されている北淡震災記念公園の総支配人で、研修に訪れる人たちや修学旅行生に語り部活動を行っています。
【米山正幸さん】
「お母さんが出てくることができませんでした。そしてその後火が出てしまいました。助けて!だった。それが、助けて、熱い!に変わっていった。途切れ途切れになっていった。小さくなっていった。聞こえなくなってしまった」
米山さんは、消防団員としての自らの救出活動以外にも自衛隊や住職、バスの運転士など、様々な人から聞き取りを実施。訪れる人の職種によって話す内容を変えてきました。娘の未来さんが語り部を始めたのは風化に対する危機感でした。この日は、リスナーの2人に北淡震災記念公園を案内。ノートを見ながら語ろうとしますが…。
(ちらっと父を見る未来さん)
正幸さん「補足しようか?」
未来さん「補足してください」
正幸さん「これ色を塗ったんじゃなくてこれ粘土層です。砂の層です。何を意味しているかというと、この砂の層の下に粘土層があるんです。大昔は粘土層でまっすぐだった」
語り部は、まだまだ修行中です。
語り部被災地語り部国際シンポジウムin神戸
27歳の2代目の語り部の米山未来さんと明石寛成さん。2人はシンポジウムで初めて顔合わせし、震災の風化や語り部としての悩みについて話し合いました。
【明石寛成さん(27)】
「風化という言葉に対して今回こう継いでいくということで皆さんどのようにお考えなのかなと。米山さんにこういう話を聞きたいなと思っています」
z【米山未来さん(27)】
「淡路島に住んでいたので震災教育はしっかりあったんですね。いざ東京に出てみると、まず1月17日に全く阪神淡路大震災の話が友だちとも出てこない。震災のことは実際風化していっているなというのはとても感じています」
【明石寛成さん】
「僕たちが引き継いでそれを人々の教化のために防災・減災というところで今度はつないでいくっていうのが本来こうあるべき風化なのかなときょうは感じました」
また、記憶がないことに対する悩みも。
【米山未来さん】
「実際にくじけそうになったことはありました。やっぱりまだつたない部分がありますので、厳しいご意見というのが届いたりとか。そういったことも実際にあって涙したこともありましたけど、記憶ないのに何を話すんですかってというような質問が実際飛んできたこともあって」
シンポジウムの後、未来さんは父の語り部を改めて見学しました。
【米山正幸さん】
「1日に70体から80体のご遺体が運ばれてくるんだそうです。1日24時間ずっと火葬していた。小学校6年生の子が民生委員に連れられて(火葬場に)来たんだそうです。その子は、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。家族全員亡くなった。つらくてつらくて泣いて泣いてしたと思うんです。でもその時だけは気丈にも頑張ってポケットに手を突っ込んで、持てるだけのお金全部つかんで、おっちゃん、きょうはこれでお願いしますとお金を渡そうとするんだそうです。忘れてしまったら繰り返してしまうと思うんです。地震を体験した者としてそれだけは避けていただきたい」
たとえ記憶がなくても。
父は、未来さんに対してメッセージを語りました。
【米山正幸さん】
「体験していなくても語り部はできるというのは私のポリシーです。娘が語り部をするという前から私はそう思っていました」
シンポジウム2日目。寛成さんは淡路市の北淡震災記念公園で語り部の話を聞きました。経験したけど、記憶はない。寛成さんも生徒たちに自信を持って話すことができませんでした。このシンポジウムで語り部たちから震災を学び、自身の記憶をたどっていくことで考え方が変わっていきました。
【明石寛成さん】
「せっかく助かったものなので、この後はこの話をまた次の人に話ができるようになれば。生徒たちに伝えるものも変わってくると思いますね。今まで聞いてきた本当に表面的なものから、体験を少しでもしたということを、自信を持って話すことができるんじゃないかなと思います」
たまごではなく1人の語り部として
2021年12月30日。未来さんは、父の前でライブ配信を行い、ある宣言をしました。
【米山未来さん】
「プロフィールにずっと語り部のたまごって書いていたんですよ。でも、変えたの。2代目の語り部として米山未来として本名で活動する最初の語り部になります。たまごじゃなくてちゃんと1人の語り部としてきょうから頑張りたいと思います。誰かがやるではなくて私がやる。そういう風に気持ちが変化して語り部をやろうと決めました」
【米山未来さん】
「北淡町では唯一1件だけ大きな火事が起こったんです。最初ははっきりと声が聞こえていたんです。熱い。助けて。でも、だんだんとその声がとぎれとぎれになっていって。だんだん小さくなっていって最後は全く声が聞こえなくなってしまった。消火活動にあたっていた消防団員の方は今もなおその時の光景が忘れられない。お母さんの声が忘れられないとおっしゃっています」
まだノートを見ながら。父から学んだことを少しずつ。
「小さい子どもが家族みんな亡くなっちゃって。でもポケットに入っていた持てるだけの小銭つかんで、おっちゃん。もうよろしくお願いしますって」
娘のライブ配信をすべて見届けたのは、正幸さんにとって初めてでした。
米山正幸さん
「正直うれしかったです。ずっと語り部の高齢化と風化とか言われていて、若い子に語り継いでいかなあかんなとずっと思っているので。新しい語り部のやり方というか、反対に刺激を受けたというか、気づかされた。それがたまたま娘やっただけで、若い子が継いでくれるというのは本当にうれしいことですね」
親から子へ。受け継ぎ、語り継いでいくということ。悩みながらも、2代目の語り部として阪神淡路大震災を伝えていきます。