2022年01月13日(木曜日) 16:21 地域・まち報道特集・ドキュメント

「聞こえなかった悔しさ、苦しさ」 ろう者の震災の記憶

聴覚障害のある人たちは、27年前の阪神淡路大震災で情報が入らないことによる不便さや恐怖を体験しました。命を守るための情報の格差をなくす。わたしたち1人ひとりができることとは。

山村妙子さん
「本当に苦しかったです。そのことは忘れられません。もう27年になりますね。つらかった思いはずっと覚えています」

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災。多くの家屋が倒壊し、6434人が犠牲となりました。

最も多いときで31万人を超える人々が避難生活を強いられた当時、神戸市には聴覚障害の手帳を持つ人たちがおよそ5000人いたとされています。

山村妙子さんもその一人です。山村さんは、聴覚障害がある夫とともに神戸市東灘区で被災し、自宅が倒壊しました

山村さん
「1月17日は暗くて寒い。朝5時半すぎでまだ暗いとき、全く手話が見えないので夫は私の手に『ガラス』と書いて注意するよう教えてくれました」

聴覚障害者にとっての大切な言語は手話です。暗闇で「手話が見えない」。これまでの人生で初めての経験でした。

27年前、テレビから流れた地震に関する情報の多くは音声によるもので字幕がなく、聴覚障害者たちには届いていませんでした。

さらに、聞こえないことによる苦労は避難所での生活にも及びました。配給などに関する情報が音声でアナウンスされていたのです。

山村さん
「私たちは情報が聞こえないので何かみんなが並んでいるその様子を見たらお弁当なんだということがわかった。神戸では初めての震災の経験だったので、私たちのように情報を得られない人がいるということがわからなかったんでしょうか」

聞こえないことによる苦労や不安。現状にいち早く気づいたのは同じ聴覚障害者でした。

嘉田眞典さんは現在、兵庫県聴覚障害者協会の事務局次長を務めています。27年前は自宅がある三田市から仲間のいる神戸へと向かい、この道を走りました。

嘉田さん
「まさにこの道路を西へ向かってずっと行ったんです。その時に空を見上げると真っ暗で火事が起こっていたので黒煙が立っていて本当に足が怖くて震える思いでした。この辺りにも聞こえない仲間たちがたくさん住んでいたので大丈夫かどうかとても心配でした」

活動を続ける中で嘉田さんが痛感したのは「聞こえない」という障害への理解のなさでした。

嘉田さん
「普段の地震が起こる前からもっと街の中で聞こえない人たちに対する理解を深める方法、手話や筆談、身振りでコミュニケーションができるということをもっともっと私たちが広めていかないといけないと感じた」

現在は阪神淡路大震災を教訓に、神戸市内の区役所に手話通訳者が常駐するなど、聴覚障害者が情報を得られるよう配慮されています。

ふたたび災害が起こった時に27年前と同じ悔しさを抱く障害者を1人でも減らすために、私たち一人、ひとりに何ができるのでしょうか。

嘉田さん
「皆さんが住んでいらっしゃるその地域に見えないのかもしれないけれど障害を持っている人たちがみんなと一緒に生活しているんだ。聞こえない人、見えない人、車いすを使っている人とか いろんな人が生活しているということをぜひ頭に入れていただいて生活をしていただきたい」

 

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