明石歩道橋事故 それぞれの20年

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こちらの写真に映る赤ちゃん、山下翔馬さんと言います。
翔馬さんは20年前、現場の歩道橋で、事故に巻き込まれて亡くなった女性に助けられました。
女性への感謝を胸にきょうを生きる翔馬さんと、女性の遺族を取材しました。

2001年、7月21日。
夏の恒例行事だった、明石市民まつりに、多くの人たちが行き交います。

明石市の大蔵海岸では、訪れた人が、夜空に咲く大輪の花を見上げました。
楽しい思い出になるはずだった夏の景色は、この後、一変します。

「朝霧方面混雑しています」

事故の後、遺族らによって建てられた慰霊碑。
20年という歳月が流れても、あの日の出来事は多くの人々の記憶に刻まれています。

「20年たっていまだに感謝の気持ちは忘れられないですね。よく生きてたなって思いますね」
山下翔馬さん(20)。
ことし5月に、はたちの誕生日を迎えました。今は、大工の見習いとして働いています。

翔馬さんは、20年前、生後2カ月の時に、母の佳奈さんとともに、事故のあった歩道橋にいました。

「私はこの辺くらいにいてベビーカーを押してたんですけど、だんだん人が牛ぎゅう詰めになってベビーカー
の上にも人が覆いかぶさってきて抱きかかえることもできなくて」

群衆なだれに巻き込まれ、佳奈さんと離れ離れになってしまった翔馬さんは、1人の女性に助けられます。
草替律子さん。翔馬さんをベビーカーから抱き上げ、他の人に手渡した後、亡くなったことが分かりました。

事故のあと、翔馬さんたち一家は、草替さんの夫・与一郎さんの元を訪れます。

「怒られると思いました。若かったので小さい子を連れて祭りに人ごみの中に赤ちゃん連れていくなんてと。
やっぱり周りからも怒られたので、『そんなとこ連れて行くからやって』。だからやっぱり連れて行ってなかったら律子さんも亡くなることもなかったかもしれないし、私が連れて行っ
たからかなって後悔でしたね」

与一郎さんは、翔馬さんを孫のようにかわいがり、家に遊びにきてくれることもありました。

「すごく喜んでもらえて。会いたかったって言って 翔馬くんに会いたかったって。抱っこさせって言われて。ありがとうございますしか言えませんでした」

与一郎さんは、6年前、89歳で亡くなるまで、翔馬さんたちと交流を続けてきました。

「えっ覚えてたの?」
「こっちは記憶ありますね」
「メロンのおじいちゃんって言ってたの覚えとる?」
「それは覚えとる」

「毎年花を持っていくときになんで持っていくんだろうっていう考えになって、事故のことを教えてもらってっていう感じ。そういうことがあったんやってびっくりして毎年ちゃんと持っていくようにしています」

草替さんと与一郎さんの長女、寺元廷美さんです。

「暑かったやろうって思いますね ねぇ 小さい人もたくさんいたし」

事故現場に来ると、花火大会を楽しみに訪れていた母の無念を思わずにはいられません。

「母にしたら初めて行きたいと思っていて初めて来た晩だと思うので本人もわけがわからなかったと思うんで
すが、20年というのは早いですね」

20年前、母がつないだ小さな命。

「最後は母を失ったけどそのあともしばらく元気でいてくれたので。翔馬くんたちが大きくなってお仕事もはじめて元気でいると聞いたしうれしいです」

命のバトンを託され、歩いてきた20年。

花を絶対にもっていくということを親と決めているので21日に持っていけなくても前日とか次の日とか持っ
ていくようにしはしてるので。持っていくときには感謝の気持ちを忘れないようにしています」

「今天国にいらっしゃるんですけど、とりあえず自分でも元気というのはわかるんで、元気ということを伝えたい」

二度と同じ事故を繰り返してはならない。亡くなった人たちへの誓いは、どれだけ時が経っても変わることはありません。

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