震災からの復興を願う歌「しあわせ運べるように」を作詞作曲した
神戸市の音楽教諭の男性が退職を迎えました。
子どもたちと歩んできた38年間。その思いを取材しました。
阪神淡路大震災からの復興を願った歌「しあわせ運べるように」。
震災から26年を迎えたことしの1月17日も神戸の街に子どもたちの歌声が響きました。
作詞・作曲をしたのは、神戸市立高羽小学校の元音楽教諭・臼井真さんです。
これまで400にものぼる曲を作ってきました。
臼井先生「じゃあ最初から口パクでいきますね」
定年退職まで残りわずか。
教師としての38年を、教え子たちと振り返ろうと最後のコンサートを企画しています。
合唱団の児童「臼井先生の授業とか合唱団の練習もすごく楽しかったので、これからもずっとやりたいと思うけど思い出を作りたい」
「感謝の気持ちを歌に込めて 臼井先生に歌を届けたい」
臼井先生「結構ごてごてしているけど いろんな人との思い出がある」
それにずっと見守られて授業もしてきた。
教師生活38年、たくさんの出会いがありました。
臼井さんは、教え子たちとの思い出の品を音楽室で保管しています。
臼井先生「子どもたちの寄せ書きのTシャツオリジナル。こういうのは絶対持って帰らないと」
臼井先生「みんなスーツにネクタイ 1人信じられない。今だったらありえない、
こんな格好で職員写真撮ってるなんて」
人前で話すのが苦手だった臼井さん。
向いていないと思いながらも教員採用試験を受験。教師になりました。
臼井先生「学生気分が抜けていなかったので管理職の先生が次の学校の先生に
『なにぶん学生気分が抜けていないやつなんでよろしく』と言っているのを
聞いてしまった そう思われているんだと初めて分かった。
先生と呼ばれているのが恥ずかしい感じです」
神戸市東灘区にあった臼井さんの自宅は全壊しました。
教師でありながらも被災者。気持ちの整理がつかない中、学校に向かいました。
臼井先生「教師じゃなかったんですよ、避難所って学校がいつ再開できるか分からない闇の中のトンネル」
臼井先生「我々教職員はただただ避難所の運営で「救援物資が来たぞ」と言えば
数珠つなぎになって運んだり交代勤務で夜勤したり職員室の机の上で寝たりした」
その時に余震が来て「ここで死ぬのかな?」と思ったこととか 普通じゃないですね」
初めての避難所運営で自分の役割を探す日々。
そんな中、臼井さんの支えとなったのが「しあわせ運べるように」でした。
臼井先生「震災の歌なんか作るつもりはなかったし、突然に込み上げたものを書き記して歌ができた」
臼井先生「(同僚の先生が)全職員の前でカセットテープで流してくれたことがあって、職員一同から拍手が起こった、ぶわーっと。その時に自分にもできたことがあったと思って、初めて生き残った意味みたいなのを知った」
=最後のコンサート=
臼井先生「みんな同じ学年かな?」
「そうです」
臼井先生「5年でメモリーやって…」
「そうです 先生すごい記憶力」
臼井先生「みなさんも30年ぶりくらい」
「そうです。お元気ですね先生」
臼井先生「60歳なるんで もうおじいちゃん」
新型コロナウイルスの影響で、参加人数が限られる中、教え子や同僚たちが駆けつけ、会場には約200人が集まりました。
「震災があって今まであったものが全部なくなって、やりきれない思いを前に向く力に変えてくださった臼井先生にすごく感謝しています」
「自分が歌っていた曲が世代を超えて語り継がれていることを感慨深く思って、教え子になれて良かったと思います 本当にお疲れ様でした」
臼井先生「本当に幸せな38年間でした 子ども達の清らかな瞳を見てずっと続けてくることができました 最後の合唱団の子どもたちに大きな拍手をお願いします」
臼井先生「震災の後初めて音楽の授業ができた時、当たり前に授業ができるとか、歌が歌えるとか、そういうことが幸せだということをそれまで思わなかったのに、教師としての原点を教えてくれたものでもありました」
子どもたちが導いてくれて磨いてくれた教師生活だと思う。
子どもたちと向き合い続けてきた38年。
数々の歌とともに臼井さんの思いが多くの人の心に刻まれます。