2021年02月16日(火曜日) 18:01 地域・まち

東日本大震災10年 神戸で防災学び女川に移住 ~元防災女子の思い~

3月11日で東日本大震災から10年です。
学生時代、宮城県の被災地のボランティアに行った神戸学院大学の卒業生が2年前に女川町に移住。
復興のまちづくりの一員になりたいという女性の思いを取材しました。

全国2位のサンマの水揚げを誇る宮城県。県の東部、牡鹿半島に位置する女川町は、サンマをはじめホタテや牡蠣の養殖など漁業が盛んな街です。

この町に関西から移住した1人。合田七海(ごうだ・なつみ)さんです。
「初めて来たのは、2014年の夏でその時は病院しかない。あとは全部土だけ。あの病院ですか。転々とがれきがありました」

震災前およそ1万人が暮らしていた女川町。2011年3月11日。
この町に最大14.8mの津波が襲い、町の建物の7割が壊滅。死者行方不明者は872人に上りました。
人口は震災前と比べて4割減り、まだ復興半ばです。

合田さんは2年前に、この町にやってきました。
「防災を学ぶきっかけが東日本大震災だったので、私は。大阪府堺市出身で、防災を学ぶため2014年、神戸学院大学社会防災学科に入学しました。
直接人を助けるような仕事をしたいと思って災害時の人命救助とかを見て自衛隊に入ろうと思って。
自衛隊入るんだったら防災学ぼうかと」

大学では、女性目線で防災を考え、啓発活動を行うサークル防災女子に所属。
卒業後は非常食の製造会社に就職しました。

Q:自衛隊に入らなかったのは?
「大学時代の防災女子の活動や宮城県での仮設住宅でのボランティアを通して直接人を助けるよりも間接的に人を助けることもできると思って」

大学時代、女川や石巻でボランティアに訪れていた合田さん。
住民として復興に携わりたいと2019年3月に移住。
女川町のシェアハウスで共同生活をしながら、地元を巡るツアーやイベントの企画に携わりました。

「大学時代に女川町に何回か来ていて、その度に駅ができたり商店街ができたり。まちの変化がどんどん見られたのがすごく魅力的で、まちの人の前向きな気持ちが復興する形に表れていると思って。このまちのまちづくりの一員になりたいなと思って移住しました」

移住から1年。
町おこしにやりがいを感じた合田さんは地元宮城のお茶を中心に販売するお茶屋さんに就職しました。

OCHACCO(当時) 内海康生 代表
「なっちゃんがまちのみんなからすごく愛されていて溶け込んでいます。都会から地方に来るという選択があるというのはすばらしいなあと思います」

この日、関東からこの町に移住してきた友人が。
 「なっちゃんがつくっている?」
 「ブリュレはうちが作ったかな。ミルクティーも私がつくった。おいしい?」
 「完璧だ」
Q:合田さんはどういう人ですか?
 女川のフルーツ屋さん「かわいいですね。うれしいですよね。もしかしたらここで将来根を下ろして、もっともっと人口増えるかもしれないし。そういうのを願っていますよ。人口減っていますからね。頑張ってね」
 「いい人を見つけないと」
Q:こっちで探している?
 「そうですね」

大学時代は、学生消防団の一員でしたが、女川の消防団にも入団しました。
2月13日の地震では大きな被害はありませんでしたが、新型コロナウイルスの影響で女川の観光地も苦しい状況が続いています。

「石巻でコロナが増え始めてだから人があまりいないですね」
東日本大震災から3月11日で10年。
合田さんが働くお店も名前を変えて、1月17日にリニューアルオープンしました。
刻々と変化する女川の街並み。
神戸で防災を学んだ合田さんが女川の住民の一員として町の復興を見届けていきます。

「この店から女川町を知ってもらうきっかけにしたいですし、外から来た人がもっと女川町を楽しんでもらえるように積極的にいろいろやっていけたらいいなと思います」

合田さんが移住するきっかけとなったのが女川の「お試し移住プログラム」です。
女川町に5日から30日間滞在してシェアハウスに無料で滞在し、地方での生活を体験できます。

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