神戸のママさんバレーボール教室の指導者を務める薄井信子さん(76)。
選手時代は岡山県倉敷市を本拠地に活動していたクラボウの実業団バレーボールチームでエースアタッカーとして活躍。全日本のメンバーとしても海外遠征やアジア大会優勝を経験しました。神戸市内のバレーボール教室では25年間指導しています。
姫路学院女子短期大学では監督として一からチームを立ち上げ、最も下のリーグから1部まで引き上げた実績もあります。
大阪市出身で50年前から神戸で暮らしている薄井さん。バレーを終えた後の人生を考え、40年前に阪神深江駅近くで喫茶を始めました。店の人気メニューはとんかつ定食。そしてなんといっても看板は東洋の魔女として知られる薄井さんの存在です。
店の名前は「ウィン」。勝負に勝つという思いが込められています。
(薄井さん)
これはソ連か、日ソ戦の時。ソ連行ったとき。船の中、船の中で練習するんやけどね。もうトゲがいっぱいでね。そんなところでも練習したよ。ソ連のモスクワ行くときかな。
クラボウでの実業団時代、トラックのタイヤを背負って海岸を走り、終わったらお寺で座禅。過酷な練習に耐えてきました。
(薄井さん)
両親が見に来たときに見せられなかったですもんね。こんなん親に見せたらあかんわというのがなんぼでもありました。脱走したこともあるしね。
脱走してキャプテンしとったんかな。成績がうまいこといかなかったから逃げて帰ったんですよ。
そして、17歳のときに東京オリンピックの全日本候補選手に。大会直前の21人の最終候補にも残りました。
(薄井さん)
天皇両陛下が来られて競技をストップしてスタンドみんな全員立って。天皇陛下をお迎えするときに自分のサーブ番やったから印象に残っている。
2人の息子と3人の孫がいますが、自身の体験を孫にも話すことはなかったそうです。
(薄井さん)
そうですね。(バレーボール)教室行ってもいろんな思い出とか話をすればいいと思うんだけどできない。しないね。
金メダルを獲得した1964年の東京オリンピック。
薄井さんはオリンピックに向けて候補選手として練習してきましたが、メンバーには選ばれませんでした。この56年間、東洋の魔女と呼ばれる一方でオリンピックには出場していないことへの葛藤があり、口を閉ざしてきました。
(薄井さん)
分かってほしいんですよ。いちいち説明するのも…。ほんまに全日本でやってたんかな?という感覚になっちゃっていると思うんですよ。地域ではね。
東京オリンピックのあと、東洋の魔女の全日本メンバーとして海外遠征へ。2年後のアジア大会では金メダルを獲得しました。
(薄井さん)
でも今こないして死ぬまでにこういう状態で葛藤があったというのを。その中におるけれども、私たちは選考に漏れているからアジア大会に行ったと。なんかきょうよーしゃべっているね、いややわ。
高校時代に全国制覇を経験した晃三さんと24歳のときに結婚。国体では夫婦で兵庫県のバレーボールチームの監督を務めましたが…。
(薄井さん)
家も店も震災でつぶれ、お墓も何もかもつぶれて主人が亡くなり。
阪神淡路大震災で自宅と店の両方が全壊。震災の半年後、夫の晃三さんが事故で亡くなりました。
(薄井さん)
頑張ろうじゃなくてやらなしょうがなかった。やりましたよ。やらなしょうがなかったから。前に進んで。よー頑張ったかな。ほんまに頑張りました。
栄光と苦難を乗り越えてきた人生。生徒たちにも語り始めました。
(薄井さん)
教えてあげようか。ニチボウとクラボウの時代に私がおって、ずっとニチボウが優勝。私はクラボウで万年2位。全日本で選ばれた時もオリンピック選手の選考に入っているんだけども、メンバーに入ったのはオリンピックはニチボウ。残っている私らみたいなアジア大会。ずっと2番手で来ているのよ。
アジア大会やら国体やら連勝してきている自分の実績、自分の誇りは背中にありますね。ただそれだけです。なんか生意気なこと言ってますね。ちゃう?
あんまり言わへんかったな。あんまり言わないんですよ私。
薄井さんにとっての人生は?
(薄井さん)
バレーしかないですね。バレーを通じていろんな広がりがあったから。いろんな活動してきているし、いろんなお世話してきているし。
自身の誇りを胸に76歳の今も後進の育成に力を注ぎます。