2020年09月02日(水曜日) 10:29 地域・まち

赤紙が届いた女性
 従軍看護婦~今日を生きる~

赤紙と言われる召集令状。
受け取ったのは、当時18歳の女性でした。

藤岡:赤紙は男性だけだと思っていた
そうなの。男性だけだと思われ、誰も知らない。

治居冨美さん 95歳。
 昭和18年4月、従軍看護婦として赤紙を受け取り上海で終戦を迎えました。

「みんな決心しちゃってね。いつ死んでもいいように。心の準備をしておきなさいと」

治居さんは、従軍看護婦としての自身の戦争体験を手記にまとめました。

日本が負けた8月15日の前夜、私はこの日のことを一生忘れることはできません。

「もし、中国の人に襲われた時、最後の場合、大和なでしことして恥じないように
立派に死んでくれ」
私が婦長から手渡されたのは致死量の青酸カリでした。

篠原:まだまだ元気でおれる血圧です。
治居:いつも先生のお話しています。みんな喜んでいます。
治居さんの主治医 篠原慶希さん。篠原さんの父も軍医として、戦地に赴いていました。

篠原:婦人従軍歌。
治居:あ~よ~知っています。
篠原:2番くらいまでいきましょうか。

 ~火筒の響き遠ざかる
   後には虫も声たてず
  吹き立つ風はなまぐさく
   くれない染めし草の色

2週に1度、診療に訪れる篠原さん。
治居さんの手記を入手し、従軍看護婦としての人生を知ることになりました。

治居:昔むかしの歌です。

治居さんが生き抜いた激動の時代。
元従軍看護婦としての人生を手記をもとにたどります。

治居:よ~生きて帰ったなって。
篠原:な~生きて帰ってな。

大正14年1月20日
私は自然豊かなこの北海道礼文島で5人姉妹の3女として生まれました。
従軍看護婦にあこがれ、16歳の時に北見市の養成所に入学。
その2年後、赤紙が届きました。

藤岡:「赤紙は男性だけだと思っていました」

「そうなの。男性だけだと思われ、誰も知らない。
私もこんな赤紙嫌いや言うて、でも家では名誉なことやって」

当時18歳。町からは名誉と称えられ、第431日本赤十字救護班として上海へ。
北海道出身者とともに上海第一陸軍病院で、寝る暇もなく兵士たちの看護に明け暮れました。

「飛行機が帰るまで。ガーって来てはね、バリバリバリっていくんですよ。寄宿舎なんかようやられましたよ」

B29の機銃掃射など、戦火は日に日に激しさを増しました。
私たち北海道班は上海の外国人居留地に移動し、終戦を迎えることになったのです。

「終戦の日です。みんな決心しちゃってね。
いつ死んでもいいように。心の準備をしておきなさいと」

8月15日、終戦の前夜。
この日のことは一生忘れることはできません。

町田婦長の押し殺した声を聞き、私は飛び起きました。

「声を出すな。
5分で自分の荷物をまとめ、全員病院へ移動する。音を立てるな。慌てるな!」

暗闇の中、私たちは自分の荷物をまとめました。
病院に着くと、婦長から日本は戦争に負けたことを伝えられました。
あす天皇陛下がお言葉を述べられると。

「皆の命は私に預けてほしい。死ぬと時は1人ではない。みな一緒だ」
婦長から全員に薬品を手渡されました。しかし、何の薬か説明はありませんでした。

―終戦―
ついにその日がやってきました。
婦長を中心に北海道班が集まり、渡された薬品は、致死量の青酸カリであることを告げられました。

「もし中国の人に襲われた時、最後の場合…
大和なでしことして恥じないように立派に死んでくれ」

日本が負けたと知り、外では中国人が暴徒化していました。
日本人全部殺すっていうことは聞きました。帰れないと思っとった。

日本に帰れなくて 中国人に殺されるならみんなで死んだ方がいい。
遺書を書いても届かない。どうせ死ぬんだから。
私たちは 薬と水を前に正座をして「さようなら」と合掌をしたのです。

その時、
水と混ぜて飲もうとしたときに町田婦長がこら~って入ってきた。
「お前たち何をしているのか!
まだ早い。死ぬときは全員一緒だ。
私は20人の看護婦を預かっている。
私の命をかけて必ず北海道へ連れて帰る。
頼むから私の言う通り力になってほしい」

私たちは助かりましたが、青酸カリを飲んで自殺した看護師や衛生兵もいました。
その後も日本には帰れず、復員兵たちの看護の日々。
コレラなど伝染病も蔓延していました。
遺骨も送ることができず亡くなった兵隊さんの小指だけが遺骨として日本に届けられました。

終戦から4カ月後、私たちに動揺が走る出来事が。

「婦長殿! 婦長殿!」
もう1人の婦長 中川婦長が結核を患い、29歳の若さで亡くなりました。
体調不良を隠して勤務し続けていたのです。

「婦長が死んだ~って。恩人です。みんな恩人です」

中川婦長は最期に 辞世の句を残していました。
 「秋霖(しゅうりん)や 独り寂しく 旅に立つ」

ただ生きて帰ることだけを夢見てきました。
島に帰ることができたのは、婦長が亡くなった1カ月後のことでした。
家族はびっくりしました。
「生きてかえったんやて。まぁ生きて帰ったの!」って。

復員後は、結婚し、息子が生まれました。
夫の故郷 兵庫県で養護教員として働いてきたのです。

「戦争はしたらいけませんよ。それは言うんですよ。
命は大切にということはうちの小学校でしたら1番先に小さい子でもね。
教訓を生かさなきゃいけないよという話はしていますね」

1日1日を大切に生きてほしい。
私は人生を手記にまとめました。

「今日を生きる」と。

 ―殉職した日赤の医師や看護師は1187人―

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