2020年08月12日(水曜日) 17:26 地域・まち

【特集】まもなく終戦75年 短歌で平和への願いを伝える

まもなく終戦から丸75年です。終戦後も戦地での記憶に悩まされた夫の様子を短歌に詠み、平和への願いを伝える88歳の女性を取材しました。

洲本市の荒浜悦子さん(88)。終戦直後、女学生だった13歳のころから短歌を詠み始め、88歳になった今でも続けています。三十一文字に思いを込め、戦争についての歌も詠んでいます。

(荒浜悦子さん)
短歌は紙と鉛筆があったら書けるしそういうことで最後まで残った趣味というか私の生きがいというか。
『ふるさとの墓参に菜の花供えやる少年兵は幼なじみよ』
さっきまで遊んでいた子が戦争が激しくなって兵隊にとられて亡くなった。

2005年に亡くなった夫の威さん。小学校の教員をしていた1941年、20歳のころに大阪港から中国の戦地に向かいました。

(荒浜さん)
(寄せ書き日の丸を持って)出征兵士が出発した。水仙郷の村の人たちが祝ってくれて。

中国大陸を転々とし、フィリピンの戦線に加わります。戦地で腰を撃たれて重傷を負い、帰国。その後、大阪の傷痍軍人療養所で治療を受けて1949年に退院。淡路島に戻ってから数年は寝たきりだったものの、回復して再び教壇に立ち、悦子さんと結婚しました。

『「真実に生き平凡に暮す」とふ夫の言葉に頼りて生きなむ』

悲惨な戦争を経験し、「暮らし方は平凡でいいけれど正直に生きる」そう心に決めた夫を支えながら、3人の子どもを育てました。

(荒浜さん)
主人は戦争で半生を塗りつぶされた。けれども終戦記念日の夜に話すくらいで普段は何にも言いません。思い出すの嫌なんだろうな。

淡路島内の小学校や中学校に勤め、優しい先生だったという威さん。教え子や悦子さんには戦争の記憶をほとんど語らなかったと言います。

悦子さんは後遺症が残った腰をもんだり、学校へ送り迎えしたりしながら夫を支えました。

『傷痍軍人の夫は八月十五日酔ひ痴れ特攻の友呼びて泣く』

(荒浜さん)
2人でデートするようなことは一度もありませんでしたが、8月15日の終戦記念日だけは2人で洲本市戦没者慰霊祭にお参りして夜になったら「笹野、笹野」と言って主人が大泣きしていました。それは私忘れません。

敵の軍艦に突っ込んで亡くなった親友の話や戦地で飢えをしのぐために死体の血を吸って生き延びた話を口にしました。

威さんは退職後に脳梗塞を発症すると様子が一変します。

『「敵前上陸」「敵前上陸」と呟きて夫は暗夜の庭突き進む』

病気の影響で戦時中の記憶と現実を混同するようになったのです。軍艦から降りて泥水の中を戦場へ進んだ記憶を思い出し、海岸が見える自宅の庭で杖を持って鉄砲を撃つ仕草で、「敵前上陸」と叫んだこともありました。

(荒浜さん)
これは戦争のトラウマや。ちょっとずつ思い出してくるんやろうな、戦争のこと。

戦時中の記憶に悩まされようになった夫の姿に戦争の恐ろしさを改めて感じた荒浜さん。自分にできるのは夫の戦争体験を伝える歌を作ることだと思うようになりました。

(荒浜さん)
1人でも戦争の悲惨さを知って戦争の方に向かったらやめる気持ちになってもらいたい。
『もくもくもく世界の空へ伸びてゆけ入道雲は平和の使者だ』
入道雲を見た時に「どこまでも世界の果てまで伸びてゆけ」平和を伝えに伸びていってほしいなと思ったんです。

戦時中の記憶に悩まされる夫を支えた日々。短歌を通して平和への願いを後世へ伝え続けます。

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