2020年01月15日(水曜日) 16:51 地域・まち

【特集】激震地北淡から若い世代へ 語り部のメッセージ

阪神淡路大震災から25年。
旧北淡町の北淡震災記念公園から、野島断層と2つの震災の遺構、そして語り部の方から次世代に向けたメッセージを、藤岡キャスターがお伝えいたします。

(北淡震災記念公園 総支配人 米山正幸さん)
阪神淡路大震災で、ここ北淡町(現淡路市)では39人の人が亡くなってしまいました。倒壊・損壊した家屋も9割を越しました。
当時北淡町内全部で約3700戸、家あったんですけども、そのうちの3300戸が全壊・半壊・一部損壊してしまいました。

でも日頃からの住民と地元消防団員の連携と信頼関係が最大限に生かされて、いち早く救出活動を開始することができました。
また地域コミュニティの存在から、隣の家ではおじいちゃんは1階の奥の部屋で寝てるとか、また小さな子供さんは2階の左のあの部屋で寝てるってことを住民も消防団員も知っていました。
ですから、潰れた家であってもここら辺りに人が埋まってるっていうのはすぐわかったんです。そのおかげで生き埋めになってた約300人の人全員を救出することができました。
当日のお昼過ぎには全員救出、夕方5時過ぎには行方不明者ゼロを発表することができました。

当時地元消防団員は565名いました。北淡町では昔から「大人の仲間入りの証が消防団員」とまで呼ばれた町でして、当時北淡町の人口が1万1000人だったんですけども、そのうちの565人が消防団だった。この人数は他の町に比べて大変多い数だと思います。
それにまだその上に、元消防団という人が約500人健在で活躍してくださいました。その人たちの力も大きかったと言われています。

実は私も当時565人のうちの一人だったわけなんですけども、私には今25歳になる娘がいます。その娘が2ヶ月の時に一緒に地震にあいました。
当日、娘を間に挟んで女房とベッドに川の字になって寝てました。
ドンて大きな音と突き上げるような衝撃と、「アー!」ていう女房の声に目が覚めました。
気がつくと女房は子供の上に覆いかぶさっていました。私もその上に覆いかぶさりました。もう本当に唯一取れた行動ってのはそれだけなんです。
震度7っていうのはもちろん立つことできない、這いつくばっても動けないっていうのが震度7でした。

足元に置いてたタンスは倒れるし、台所では食器棚が倒れて中の食器が全部飛び出してコジャコジャに壊れてました。それで1m50cmぐらいの台の上に電子レンジを置いてたんですけども、2mぐらい飛んで床に突き刺さるような状態で落ちてました。
物が下にボトッと落ちるんじゃなくって、横に飛ぶってぐらいの揺れが震度7でした。
私は消防団だったんで、救出活動はもちろんのこと、その後の見回りとか救援物資の配布、また避難所の運営、本当に大変だったことを今でもはっきりと覚えてます。

阪神淡路大震災から25年、歳月は記憶の風化っていうのを一層私たちに突きつけています。
私たち人間は喜びや悲しみ、悔しさ、過去の体験や感情を忘れてしまう生き物です。でも忘れてしまってはダメなものはあります。

愛する人・愛する故郷を二度と奪われたくはない。私たちが生きている今という時間は、亡くなった方が生きたかった時間です。
あの時の悔しさ・悲しさ、二度と同じ思いを繰り返さないように、あの日の教訓と教えをしっかりと後世につないでいかなければいけないなって思っています。

 

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