兵庫県内各地の駐在カメラマンが地域の魅力を伝える駐在リポート。
今回は、淡路島の神子素カメラマンが、日本遺産に認定されている洲本市と北前船にまつわる歴史の話題を取材しました。
江戸中期から明治まで活躍した北前船。関西を出発して各地の港でコメや魚などを積んで瀬戸内海、日本海を経由し北海道を行き来しました。
大阪と北海道を1回往復するだけで、現在の価値で1億円ほど稼いだと言われていて、一攫千金を狙い、多くの北前船が連なりました。
食や民謡など文化も運びましたが、近代化の波に飲まれ衰退します。
日本経済を支えた北前船。寄港地のうち、北海道の函館市や福井県の敦賀市など11市町が2017年、日本遺産に認定されます。翌2018年5月に神戸市兵庫区の「兵庫津」を含む神戸市など27の市町が追加認定。ところが、この中には北前船の寄港地ではない洲本市が含まれているんです。
「淡路島には北前船の寄港地が存在しておりませんので、あえてその中で認定を受けたということは、これは高田屋嘉兵衛という人がいかに偉大であるかということを文化庁、国が立証してくれたと理解しております」(高田屋嘉兵衛翁顕彰会 砂尾 治 会長)
そう、そこには高田屋嘉兵衛が大きく関係しています。高田屋嘉兵衛とはどんな人物だったのでしょうか。
「ここらが江戸時代の幹線道路というか本通で、いまでは車1台が通れる状態だが、昔は荷車くらいが一番大きなものだったんで、人が通ればいいという形で通っていた。この向こうに和田屋さんというか、嘉兵衛が若い時に商売をお手伝いした店があると。今は形はないんですけどね」(高田屋嘉兵衛翁顕彰会 髙田耕作 理事長)
1769年、洲本市五色町都志地区で、貧しい農家の長男として生まれた高田屋嘉兵衛は、兵庫で船乗りとして頭角を現し28歳の若さで自分の船を購入。北前船の交易で莫大な財産を得たほか幕府の要請を受けて択捉島と国後島間の航路を拓くなど優れた功績を残し、晩年、ふるさとの都志に戻ってからは港の改修などに私財を投じたと言われています。
都志には、嘉兵衛が住んでいた邸宅の跡地が残っています。
「ここが嘉兵衛の邸宅跡で明治になってから全部処分してしまって、何もなくなってしまったんですけども明治の末になって嘉兵衛翁を顕彰したいということで(大正4年)こういう碑ができた」(髙田 理事長)
今は6.4mの石碑が建てられているだけですが、その広さは総面積543坪にも及びます。洲本市の高田屋顕彰館には、当時の功績を裏付ける貴重な資料が多く残されています。
「高田屋に残された庭掛物という倉庫で商品を預かる際の預かり賃を示した古文書になります。本庄米、新庄米、秋田米、庄内米と東北諸県のお米の預かり賃が記されていて当時にもお米にブランドがあってそれによって預かり賃が変わるというのがこの資料から読み取れます」(高田屋顕彰館 斉藤 智之 専門学芸員)
数々の功績を残した嘉兵衛。都志八幡神社の随身門は国後島沖でロシアに捕えられたのち、無事に解放されたことへの感謝の気持ちから嘉兵衛がふるさとの地に寄進したものです。
神社の春のお祭りには、船の形のおみこしが登場し、船乗りたちが荷物を積み下ろしながら歌った船歌が歌われます。
高田屋嘉兵衛の生誕から250年がたったいまもなお、地域の人たちに愛されつづけています。