阪神淡路大震災から1月17日で30年を迎えました。
震災で当時、兵庫県神戸市長田区に住んでいた父親を亡くした男性がいます。
生前に打ち明けた夢をかなえ、洋食店を営む男性を取材しました。
阪神淡路大震災から30年の朝 亡き父に祈る
あの日から30年となった朝。
1人の男性が、亡き父の冥福を祈りました。
【板倉哲也さん(54)】
「毎年『店 続けられているし みんな家族も頑張ってるで』と報告している」
料理人の板倉哲也さん(54)。
震災前、父に打ち明けた夢を実現させました。
オープンから15年 自慢の味に多くの常連客が足を運ぶ
神戸市東灘区の洋食店「Itasan亭」。
板倉さんが夫婦で切り盛りするこの店は、2024年、オープンから15年を迎えました。
メニューの多くは、誰もがなじみ深い洋食。
料理と同じぐらいに常連客が楽しみにしているのは、板倉さんや、妻の啓子さんとの他愛もない会話です。
【常連客】
「Itasan亭のVIP席はこのカウンター 皆さん最初はあちら(テーブル席)に座って だんだん距離が近くなって ここに座るともう常連」
【板倉哲也さん(54)】
「“Sシート”みたいな」
【板倉さんの妻・啓子さん】
「板さんと喋りたい人は目の前に座る」
【常連客】
「落ち着くよね この雰囲気が 友だちの家に遊びに来ている感覚」
もともと鉄鋼会社に勤務していた板倉さん。
小学生の頃、父と外食で食べたハンバーグの味が忘れられず、「いつか料理人になる」という夢をずっと抱いてきました。
靴職人として再起を図った父 長田区で被災し亡くなる
板倉さんの父・輝行さんです。
靴職人として、家族を支えてきました。
【板倉哲也さん(54)】
「結構厳しかったのは厳しかった 『誰かのためにすることでも責任取れるようになってから』というのをすごく言われていたのがずっと残っている」
輝行さんは、経済的な理由で一度職人の道を絶たれましたが、再起を図って、震災の1カ月前神戸市長田区のアパートで一人暮らしを始めました。
引っ越しの日、親子はそれぞれの夢を語り合います。
【板倉哲也さん(54)】
「『実は自分は 料理人として店をしたいと思っていた』と初めてその時言った」
「笑っていたかな 『そうか お前そういうこと考えてたんやな』『それだったら俺も頑張るし お互い頑張ろうな』と言ったのがその時初めて」
息子と健闘を誓った輝行さんの人生は、あの日、奪われました。
1995年1月17日。
神戸市長田区は、震災で大規模な火災に見舞われました。
【板倉哲也さん(54)】
「信号も電気もない状態で みんなどうしてるんやろう これは大変やなと思いながら来て なんでこんな光景を見ているんやろうという感じで自分では思っていた」
勤務先の東京から駆け付けた板倉さんが、焼け落ちたアパートで父の遺骨を見つけ出せたのは1月21日のこと。
その日は、輝行さんの58歳の誕生日でした。
「一言で言うなら うそやろ という感覚しか頭にない 歯並びを見て親父とすぐ分かったけど複雑というか 悔しいという部分もあるし 探し出せたというのもあるし」
父の死を乗り越え料理人の道へ 14年の修行経て夢かなえる
板倉さんは、震災前、病気で母を亡くしました。
震災で父も奪われ、それでも懸命に生きる姿は、まるで両親からの言いつけを守るようでした。
【板倉さんの妻・啓子さん】
「若い時からひとりで何でもやってきているでしょ 大学生の頃にお母さん亡くなって 私は家族がいて困った時は親に甘えてるなぁ みたいなのが (板倉さんは)早くに失ったから」
「『ちゃんとせなあかん』とか『しっかりせなあかん』とか(言っている)」
震災の半年後に会社を辞め、料理人の道へ。
フレンチ、イタリアン、和食…14年の修行を経て、2009年、夢を叶えました。
「店 続けられているし みんな頑張ってるで」 ことしも胸の中の父に語り掛ける
毎年1月17日の早朝、板倉さんはひとり、輝行さんの足跡を辿ります。
想いだけでは、大切な人を守ることができない無力さを、痛いほどに知らされました。
【板倉哲也さん(54)】
「誰に文句言うわけにもいけへんし それも自分がおらん時やしね そんな助けられるだけの大層な力もないやろうけど、やるしかないんやろうなぁとは思ってる」
「ずっとそんな感じなんやろな それが自分の業みたいな 試練みたいな感じなのかな」
あの日、輝行さんが最期を迎えた場所。
炎に包まれた父の無念は、推し量れるものではありません。
【板倉哲也さん(54)】
「亡くなった人 親父に対してもそうやけど 頭の中で報告ができたらいいかな その人らが見ていない年数なので『今こうやねんで』と自信持って言えるようになったらと思っている」
自慢の手料理を振る舞うことは、できなくても。
胸の中の父に想いを馳せながら、板倉さんはきょうも厨房に立ちます。