【特集】あしたもあなたを想う 阪神淡路大震災30年 息子を亡くした母の歩み

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  • 高井さん一家(右が将君ー左がゆうちゃん)

  • インタビューを受ける高井千珠さん

  • 将君

  • 関西大学で行われた講演

  • あの日無事だったゆうさん(右)

  • 25年ぶりに幼いゆうさんの映像を見た高井さん

  • 2000年撮影のホームビデオ

  • ゆうさんと神戸の街を歩く高井さん

  • 「笑顔の向こうに」を聴く高井さん

  • 1月17日 東遊園地を訪れた2人

阪神淡路大震災で1歳半だった息子を亡くした女性がいます。

強い喪失感に襲われ泣いた日も、顔を上げて生きようと決めた日も、心の中には亡くした息子の存在がありました。

あの日から、1人の母親が歩んだ30年です。

息子を亡くした高井千珠(たかい・ちづ)さん(63)。

よく笑う仲が良い双子は、高井さんたち夫婦にとってはようやく授かったわが子、宝でした。

あの日から将君だけがいない 家族の歩んだ30年

1995年1月、当時山口県で暮らしていた高井さん一家は、母親の千珠さんの実家がある西宮市に帰省していました。

友人や親戚と過ごした楽しいひと時。この先も続いていくと信じていた家族4人の日常は一変します。翌日に起きた阪神淡路大震災によって。

6434人が犠牲となった阪神淡路大震災。

高井さんの当時1歳半の息子・将君もその1人です。

子どもたちとともに眠りについたあの日、将君だけが倒れてきたタンスの下敷きになり、命を落としました。

【息子を亡くした高井千珠さん】

「元に戻していれば、もしかしたら助かったんじゃないかとか すごく後悔というか あの時の将君の最後の姿が私の一番の後悔につながっている」

少しやんちゃで元気いっぱいに走り回る将君。

心の中で生きている息子に語りかけることはできても、あの日から、抱きしめることは叶いません。

悲しみも後悔も過去じゃない 続いていく

【息子を亡くした高井千珠さん】

「震災から30年、みんなにとって過去だし、知らない話。でも私にとっては30年というのは過去ではなくて続いていて、そしてこれからも続いていく。30年前のあの日に家族を失った人が30年後、こうやって生きているんだと知ってほしい」

去年11月、高井さんの姿は防災を学ぶ大学生たちの前にありました。

語ったのは、将君を失ってから積み重ねてきた日々についてです。

【息子を亡くした高井千珠さん】

「自分の子どもを助けられなくて死んでしまって、私自身が生きていた。だから生きていて良かったではなくて、生き残ってしまった。将君にとって『なんでママ僕が死んじゃったのに生きているの』『なんで来てくれないの』と思っているような気がしていたから、生きていてはいけないと思っていた。でも将君が生きた証を残したいと思ったことが、私の中で生きようかなと思う気持ちになった」

将君とともに過ごせた時間は1年半余り。

大切なわが子が生きていたということを伝えようと、高井さんはたくさんの人と交流を重ねました。

将君がいない人生を生きていく。

高井さんがそう決めたのは、あの日、無事だった将さんの双子の妹・ゆうさんの存在があったからです。

生まれた時から片時も離れることなく育った2人。

時が止まったままの将君と、進んでゆくゆうさん。

あの日から2人の道は別れてしまいました。

小学校に上がるころからゆうさんの成長を撮り溜めたテープがあります。

撮影してから一度も高井さんがその映像を見ることはありませんでした。

喜ばしいはずのその成長を、まっすぐに見つめることができなかったからです。

長い年月を経て、テープの中に眠る幼いゆうさん、そして過去の自分自身と向き合うことにしました。

探す面影 募る想い 将君とゆうちゃん2人の母として

【息子を亡くした高井千珠さん】

「今まではゆうちゃんだけが育ってくのがつらくて、双子ってつらいなとすごく感じながらゆうちゃんを育ててきたんですけど、でもゆうちゃんがいてくれたおかげで、将君が出るはずの入学式に出ることができたんだと思って、その時はじめて『双子でよかったのかな』と思ったのがこの入学式です」

当時、日に日に成長していくゆうさんの姿に、もういない将君を重ねてしまっていました。

【高井千珠さん】

「多分これ、ゆうちゃんのことも見ているけど、同じ年の男の子を見てつらい気持ちの方が大きかったかもしれないです。こんなに成長しているんだ とか 生きていたらこうだったんだなとか。それがちょっとずつなくなって、純粋にゆうちゃんのことだけを見ていた」

【過去の映像】

高井さん「ゆうちゃん、こっちこっち!!がんばれ~!!」

そこには、将君を亡くした悲しみを抱えながらも、目の前にいるゆうさんを愛する母親としての高井さんがいました。

【高井千珠さん】

「笑っていたりはしゃいでいる、ゆうちゃんの映像を見てほっとしました。震災直後、ゆうちゃんの成長というのを、見ていたんですけど見ていない。将君への思いが強くて。あの時できなかったゆうちゃんとの時間を、どこか修復したいと思っているし、埋めたいと思っているし、埋まらないとは思っているんですけど、ゆうちゃんに対して、すごく大切ということを伝える人生を過ごしたいと今思ってる」

大人になったゆうさんは今、親元を離れて暮らしています。

離れて暮らすようになってからも、共に過ごす母娘の時間を大切にしています。

阪神淡路大震災が起こった時、ゆうさんは1歳半。

一緒に過ごした兄のことは覚えていません。

高井さん「お母さんが泣いてる姿も特別ではなかったってこと?」

ゆうさん「お兄ちゃんが生きている人生を知らないから、はたから見てかわいそうでも私はかわいそうじゃない」

高井さん「ママとしては、将君が死んじゃって後悔もいっぱいあるわけよ。あの時怒らなければよかったなとか、そう思ったらゆうちゃんがわがまま言ったときに、もしゆうちゃんがあした死んじゃったら私は後悔すると思って、最後の最後にいいよって言ってあげたのが、今のゆうちゃんのわがままの元」

【高井千珠さん】

「やっぱりあの時、生きててくれたから。あの時一緒に死んでいればこういう時間は持てなかったので、ゆうちゃんと過ごすことで、生きていてくれてよかったなって、いつも感謝しながら過ごしています」

あしたもあなたを想う 阪神淡路大震災から30年

年の瀬、高井さんはある人たちに会いにいきました。

東日本大震災の被災地から神戸を訪れていたのは、「福島しあわせ運べるように合唱団」。

福島で結成された合唱団は、歌を通じて被災地を勇気づけ、10年に渡り神戸とも交流を重ねてきました。

その中で歌い継がれてきたのが、息子を亡くした高井さんの想いです。

高井さんの想いが込められた歌『笑顔の向こうに』

「この笑顔の向こうにたくさんの悲しみがあるの

どんなに笑顔を作ってみても悲しみは癒されない

大きすぎる悲しみの向こうから

幸せだったあなたたちとの日々が 

今の私にやさしく手を振っている それが心の支え」

目の前にいるゆうさんも、ここにはいない将君も。

どれほどの時間が経っても、2人のわが子は高井さんにとって何にも代えがたい宝です。

将君がいない人生を歩む中で強くなった家族との絆や、たくさんの出会いが高井さんの背中を押してきました。

【高井千珠さん】

「私は2人との時間が幸せだったから、こんなにつらいんだなということを改めて思いました。でも2人のおかげで私は幸せをもらった。息子を失った後悔とか悲しみは一生消えないけれども、それでも生きていかないといけない。生きてきてよかったなって心から思いました」

愛おしい面影を胸に。あなたのいない日々を生きていく。

あしたも、あさっても、その先も。

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