安田大サーカスの団長安田さんがサンテレビ(本社:神戸市)の報道特別番組「バトン1.17」に生出演し、28年前の阪神淡路大震災について語りました。
武庫川にほど近い兵庫県西宮市のJR甲子園口駅前。28年前の1995年1月17日、安田大サーカスの団長安田こと安田裕己さん(48)は、この場所で生き埋めになった友人 山口恵介さん(当時20歳)の名前を叫び続けていました。
団長
「うめき声と人の声がした。反応がある。とにかく頑張れよ!頑張れよ!って励ますことしか俺らできないから励ましていたんですよね」
1995年1月17日の読売新聞夕刊の写真です。倒壊したビルの前で呆然と立ち尽くす男性。当時20歳の団長の姿でした。
(JR甲子園口駅前でボーイスカウトと出会う)
住民「団長さんや!団長さんありがとうございます!はいチーズ」
恵介さんも所属していたボーイスカウト。子どもたちに28年前の写真を見せました。
団長
「これがこのビルがこれや。これがおっちゃんや」
住民
「阪神大震災知っている?」
子ども
「知っているけど…」
団長
「実際はこうやってんで」
子ども
「えーっ…」
【被害が大きかった西宮市】
西宮市本町(ほんまち)では阪神高速3号神戸線が倒壊。道路上では、落下寸前でバスがとどまっていました。仁川百合野町では地震によって大規模な土砂崩れが発生。34人が犠牲になりました。閑静な住宅街が広がる西宮市でも多くの住宅が倒壊。消防庁や兵庫県の調べによりますと、震災関連死も含めて市内だけで1126人が犠牲(行方不明者1人)になりました。
【震災の翌日 1995年1月18日】
JR甲子園口駅前の映像です。31人が入居していた7階建てのビルが倒壊し、11世帯19人がこの中に取り残されていました。
【28年前について語る団長】
連絡を受けた団長は車で駆けつけました。
団長
「ビルが倒れたから甲子園口駅がすぐそこに来たんやと思って。あれ?道がない。どうして行ったらいいんやろうみたいな感じやった。何が起きたか本当に分からなくて」
生き埋めになった1人 山口恵介さん(20)。団長とは幼稚園のころからの友人で連絡が途絶えていました。
団長
「うめき声というか反応が声をかけたらあった。俺らの感覚で言うと…。何年も前のことやから。その時はそう聞こえて欲しかったのか?本当に聞こえたかと言われると今は定かではない」
駆け付けた人が重機でがれきを取り除き、消防や自衛隊などが生存者を探していました。
【震災から2日後 1995年1月19日】
運休が続いていたJR神戸線は甲子園口と大阪間で運転を再開。
駅員によるアナウンス(拡声器)
「ただいま改札している電車は8時38分発高槻行きです」
出勤や通学する人たちのその傍らで生存者の捜索が続けられていました。57時間ぶりに9歳の男の子が救出されましたが、この日の夜、恵介さんと同居していた祖母 吉本きくえさんが遺体で発見されました。
【震災から4日後 1995年1月21日】
【写真9:フランスからの災害救助特別隊】
フランスから61人の災害救助特別隊が西宮に到着。
隊長
「ボンジュール」
警察・消防とともにフランスの特別隊や救助犬も加わり捜索が続けられたこの日、恵介さんがようやく発見されました。
【助かると思っていた… ビルの倒壊で18人が死亡】
【写真10: 20歳で亡くなった山口恵介さん】
団長
「助かると思っていましたけどね。その呼んでいた時はね」
恵介さんが発見された翌日の1月22日。ようやく対面できた場所は西宮市内の遺体安置所でした。
団長
「よく見られなくて。おばちゃん(恵介のお母さん)から『見てあげて。最期やからって』と言われて見たら顔が腫れあがっていて。これは苦しかったやろうなと思いましたね。自分が泣いていたかどうかも覚えていない。周りは泣き崩れていたと思うみんな。もう自分がどうなったか覚えていない」
【28年前の震災の記憶をたどる】
【写真11:ふじ精肉店(西宮市)】
団長にとって途切れ途切れになっている28年前の記憶。団長が子どものころにコロッケや肉を買いに訪れていたふじ精肉店で話を聞きました。
団長
「こんにちは」
ふじ精肉店 八尾忠夫さん
「おー!あらー」
団長
「あのホーキビルは見た?」
ふじ精肉店 八尾幸子さん
「見たよ。おたくらな。名前を呼んでいたやん。泣いとったやん」
団長
「泣いていた?俺?そんな記憶がないねん。叫んでいてみんなで集まったのは覚えているけど泣いていたのまで自分の記憶にない」
当時のことを聞いて回り、28年前の記憶をたどります。
珈琲専門店MUC甲子園口店。団長が幼いころから母に連れられて訪れていた喫茶店です。
友人
「おっ、久しぶりやな」
団長
「コーヒーかミックスジュースや。ここは。ほなコーヒーで」
待ち合わせしていたのは、古くからの友人 永吉勇人さん。かつて恵介さんが働いていた水道工事会社に就職し、現在は社長として従業員を引っ張っています。
友人
「前の日、会っとったもん。ギリギリまで」
団長
「あっそうか。1番最後まで会ったの勇人なんや」
友人
「仕事やからきょう、おばあちゃん家泊まるねんって言うて」
団長
「そうや~。仕事でこっちやったからな」
団長も2日前、恵介さんと一緒に成人式に出席していました。
団長
「(新聞写真を見て)『あきお』なんやろ。これは『いけちゃん』や思っているんやけど。これ『なおさん』。これが昔の僕の相方の『竹さん』。これが『勇人』。こんな風になるねんもんな。まじまじと見たのは初めてかもしれない」
友人
「まだ火が上がってるやん」
団長
「子どもに前見せたんや。俺。映画?って言われた」
友人
「思うわな」
団長
「大丈夫かって?聞こえる。聞こえる。あれはどうやったんやろうな。ほんまは。聞こえてほしいという気持ちなのか。ほんまに聞こえたのかが…」
珈琲専門店MUC甲子園口店 店主 渡辺和子さん
「あたしが来た時は生きててん(と思う)。恵介くん」
団長
「えっ!?」
渡辺さん
「生き埋めになっていてん。あそこのところでうめき声みたいなものが聞こえて」
団長
「やっぱり聞こえたよね。最初ね」
渡辺さん
「隣の奥さんがさっきからずっとこう言うてますって言ってはったよ」
Q真面目な方やったんですか
団長
「恵介ですか。真面目ではないけど、仕事はちゃんとしていた」
友人
「芯はしっかりしていた」
団長
「頭良かったんかな?」
友人
「頭いいと思うで」
団長
「頭ええイメージあるねんな」
団長をお笑い芸人の道に導いたのは恵介さんでした。
団長
「初めて言われた時覚えているもんな。阪急西宮北口の第二グラウンドの裏でみんながバイク乗っていてん。なんか俺ふざけていたんやろうな。おもろい裕己!芸人になれや。えー通用するかいって。ネタなんか考えられへん。そのノリでおもろいだけやからって。いやいけるって!と言われたのがほんまに。わーやってみようかなと思ったきっかけやからな」
【恵介さんの言葉を胸に お笑い芸人の道へ】
震災後、松竹芸能の養成所に入り、幼なじみの竹内宣和さんと「安田と竹内」のコンビを結成。
コンビは解散してしまいましたが、2001年に、HIRO、クロちゃんとともに結成したお笑いトリオ「安田大サーカス」でブレークしました。
大和田常務のモノマネ
「大和田常務の… 半沢直樹の名シーン。くーっ!戻らないから!」
事務所の先輩 森脇健児さんのモノマネ
「バックステップからの左ボディー。右やなく左ボディーや。ボディー打ってボディー打って。ボディー打ってボディー打つねん!」
友人
「裕己がこうやって芸能界入ってこういう場がなければ震災の話なんかしない」
団長
「忘れる」
友人
「多分改めてしないと思う」
団長
「1番は芸人になれよって言われたのが…。そんなこと言わへんよな。人に」
友人
「言わへんな。あいつそんなアドバイスするやつじゃないな」
団長
「なんか意味あるんじゃないかな。たまたま芸能界行かへんってこんな風に映って。しゃべれよってことやと思うねんな。それとの葛藤はめっちゃあったけどな。お笑い芸人やからな」
【東日本大震災がきっかけ 自らの経験を語る】
お笑い芸人として震災を語るということ。葛藤を抱きながらも、東日本大震災をきっかけに団長は自らの経験を語るようになりました。2022年12月、神戸市長田区で行われたセミナーに招かれ、震災のことについても話しました。
「朝だっと揺れて皆さんも経験されていると思いますけど、飛び跳ねていたでしょう。
「僕、下の名前裕己(ひろみ)っていうのね。おかんが『裕己、何しているの!』って部屋に来た時に『やばっ』。俺食器片づけさせられると思った。そんなどころじゃないのに気づいてへんから。『うわーめんどくさいな』と思ってもうええ。寝とこうと思って寝ていたら、おかんが死んでいると思って『何やっているの!』って起こされて。起きたら壁にスキーブーツが刺さっていたの。あれ当たっていたら完全に死んでいるよね。そのスキーブーツを壁から抜いて『あんた探していたやつあったで』って言っていましたからね。俺も俺やけどお前もお前やでみたいな。(観客:はははっ)」
「山口恵介っていう同級生が住んでいて。ビルの中で20歳で亡くなった恵介が『お前は芸能界行け!お前芸人になるんだ。面白いから絶対いけるよ』と言ってくれた部分もあって。『あー言うてくれていたなあ。でも自信ないしな。売れへんかったらつらいな。恥ずかしいなあ』と思ったんですけど、恵介の亡くなった顔がね。もう顔ぼこぼこなの。寝ていてそのまま亡くなった20歳で亡くなった恵介のことを思えば、芸能界で成功せんことくらい平気やん。売れへんかっても別に平気やん。生きてるねんから」