淡路島で長年「わらび餅屋のおっちゃん」として親しまれた洲本市の川西俊一さんが10月8日に102歳で亡くなりました。わらび餅を作り続けて70年以上。101歳まで現役を貫いた川西さんの人生とは?
※特集では川西さんのことを親しみを込めて「おっちゃん」と表記します。
おっちゃんは生涯現役 命ある限り
屋台付きの三輪車をこぎ、70年にわたって洲本市でわらび餅を販売していた川西俊一さん。101歳になっても現役で活躍していましたが、あの元気な姿はもうそこにはありません。
2019年・当時99歳のインタビュー
妻 惠さん 「お父ちゃん、来年もせんかよ。来年はな100歳。頑張ってせんかよ」
おっちゃん 「まぁ命ある限り」
消費税が上がっても値上げをせず
おっちゃんが昔ながらの味を手作りで提供していたのがわらび餅としがらき餅。しがらき餅とはもち米を炊いて冷やしたおもちのようなお菓子です。それぞれ200円と300円で販売し、30年以上値上げをしていません。
いつも妻の惠さんと二人三脚。
熟練の技で朝4時から仕込みをしていた作業場も…。
おっちゃんがいなくなってどこか寂しげです。
よく買っていたファンは?
「もう寂しくなりましたね。ずっとずっと小さい時から私や旦那や子どももみんな食べて。その日の朝早くから仕込まれてね。愛情のこもったわらび餅を食べさせていただいてお父さんからというのが元気の源だったので。本当においしかったです」
波瀾万丈の102年 4度の離婚・5度目の結婚
おっちゃんの102年は波瀾万丈の人生でした。第二次世界大戦中は、満州の陸軍の軍需工場で徴用工として働き、終戦の1年後に帰国。4度の離婚を経験し、25年前、35歳年下の恵さんと5度目の結婚をしました。飴細工(2009年度に兵庫県芸術文化協会のふるさと文化賞を受賞)も販売していましたが、立ち仕事が難しくなったことから、わらび餅に専念していました。
元気の秘訣は? 「分からんわ」
2019年取材 当時99歳
Q元気の秘訣は何ですか?
おっちゃん 「えっ?」
Q元気の秘訣は何ですか?
おっちゃん 「そりゃ分からんわ~」
90歳で脳梗塞、その後、虚血性心疾患で入院。一時、認知症と診断されましたが、回復し、3度の大病を乗り越えてきました。
元気の秘訣①ボートレース 少しずつ100円2点張りで楽しむ
おっちゃんが大好きだったのがボートレースです。
惠さん 「全財産2300円。はいどうぞ」
おっちゃん「ボートレース行くねん」
いつも100円ずつ3連単を2点張り。ボートレースの場外発売場に同行取材をしたところ。
おっちゃん「入った!入った!」
撮影を始めて1回目のレースで3連単を的中。テレビ撮影としては1発OKの奇跡を起こしてくれました。
元気の秘訣②カラオケ 歌が得意だったおっちゃん
そしてもう1つ大好きなものがカラオケです。昔から歌が得意でした。
惠さん
「長生きの秘訣は?」
おっちゃん
「さぁなぁ~」
惠さん
「あるで長生きの秘訣!愛する嫁さんがおるからや」
健康の秘訣は愛する嫁さん 教えてもらった反応は?
おっちゃん
「よ~そんなこと言うわ」
2020年5月6日 100歳の誕生日
そして迎えた100歳の誕生日。緊急事態宣言が出ていたため惠さんに撮影してもらいました。
おっちゃん 「幸せですぞ~」
惠さん 「きょうは何日ですか?5月6日」
おっちゃん 「5月6日か~」
惠さん 「100歳」
おっちゃん 「わしの生まれた月やな」
惠さん 「よかったな~」
おっちゃん 「はっはっはっはっはっ」
100歳とは思えない驚異的な脚力
新型コロナウイルスの影響で休業が続きましたが、感染が落ち着いている間は販売に出かけました。この日、自転車をこいだ道のりはなんと5キロ。100歳とは思えない驚異的な脚力です。
花束を持ってきたお客さん
「100歳おめでとう!」
惠さん
「ありがとう」
おっちゃん
「俳優の笹野さん、俳優の笹野さん。
あの人からも私にお花をいただきました」
俳優の笹野高史さんも涙した 変わらない味
淡路島出身の俳優 笹野高史さん。おっちゃんの姿が(主人公の)モチーフになった映画「あったまら銭湯」で主演を務めました。笹野さんも子どものころにおっちゃんのわらび餅を食べていた1人です。
笹野高史さん(淡路市出身で子どもんのころ洲本市で暮らしていた)
「僕が子どもの時にあこがれていたチリンチリンチリンっていう自転車も貸していただいて自分自身で運転して走ったんですけど、うわーなんとも言えない。うれしかったですね」
久しぶりに食べたわらび餅の味は数十年が経っても変わらない味でした。
笹野さん
「食べたら同じ味だったんですよね。びっくりしちゃって。味って覚えているんだ。なんか懐かしいのとうれしいのとで。何かその場で涙が出てきちゃったことがあってね」
笹野さんとおっちゃんが共演
映画ではおっちゃんがお客さん役として出演。共演も果たしました。
【映画の1シーン】
笹野さん 「きょうはちょっとおまけ」
わらび餅を受け取るおっちゃん「はい」
笹野さん 「おおきに」
笹野さん
「人間として見習いたいですよね。
生涯現役ってすごいよね。
びっくりしちゃった。僕もその話を聞いて」
102歳の大往生 惠さん「私が頑張って続けていく」
2021年11月まで自転車で移動販売を行い、101歳まで現役を貫いた川西俊一さん。10月8日、老衰のため洲本市内の施設で亡くなりました。102歳の大往生でした。
私が頑張って続けていく
通夜での惠さん
「一緒に過ごせたことが私の一生の宝物です。お父さんには返しても返しても返しきれない恩があります。お父さんがいたから私は今まで頑張ってこられました。お父さんが築き上げたわらび餅は私が頑張って続けていくつもりです。皆さんよろしくお願いいたします」
笹野さん
「奥様、待っていてください。いつか僕必ず食べに行きますので。わらび餅ののぼり旗の下で笑顔振りまいている姿を僕も遠くからでも眺めたいなと思います」
父ちゃんの歴史を塗り替える
惠さん
「長年やってきた父ちゃんの歴史を塗り替えるようなわらび餅をつくって、ファンの皆さんに届けたいです」
しばらくの間は休業しますが、2023年3月から惠さんがわらび餅の販売を再開します。
僕の密かな大好物 笹野高史さんのわらび餅の思い出 ロングインタビュー
Q笹野さんは淡路市出身ですが洲本市にもいらした時期がある
「4歳から11歳まで紺屋町というところにおりましたよ」
Qわらび餅のこともよくご存じだった
「夏なんでしょうね。何歳か覚えていませんけど、バーンという日差しの中をチリンチリンチリンっておじさんが行くんですよね。自転車でね。その音を聞くとわらび餅だって言って。
お金を親にもらったんでしょうね。わらび餅、わらび餅って言って。表に駆け出して。そうするともうすでに近所の友だちが何人か買っていたりする。列に並んで。わらび餅を5円か10円を出して。この木の船。あれは今たこ焼きでしか見ないけど、たこ焼きを6つ入れてくれたりする木の船にわらび餅をさーっと仕立てて入れてくれるんですね。それが大好きでしたよね」
Q当時の味は覚えていましたか
「人間の五感というのは記憶はどういう風になっているんだろうと改めて思いましたよ。味が。母親の味というくらいだから。母親の味がすごく記憶力がいい。あと匂いですかね。目で見ること。触覚も覚えているんだということを後に僕も経験するんですけど。味覚。味が覚えていたことを随分後になって50代でしたかね。
テレビの取材で淡路島に行ったんですけど、その時にわらび餅の幟(のぼり)を見つけて、あれは弁天さんの前辺りだったと思うんですけど、幟があって。あっ!わらび餅だっと思って。取材関係なくちょっと食べていいですかと言ってばーっと駆けていって。たまたま見つけた売っていらっしゃる方が女性だったんですけど、「うちのわらび餅です」と言って。うちの父だとおっしゃっている気がしたんだけど、奥さんだったったんですかね。
まだやっているんですよって言って。食べたら同じ味だったんですよね。びっくりしちゃって。味って覚えているんだ。なんか懐かしいのとうれしいのとで。何かその場で涙が出てきちゃったことがあってね。味って覚えているんだと思って。全く昔と同じようにつくっていますとおっしゃっていたのであっそうなんだと思って。
それから次に大継監督が「あったまら銭湯」という映画で、その時のテーマがわらび餅だったので、それでまた再会することになって。うわーっ。川西さんがとても長生きなので助かりましたよね。記憶が全部つながってきちゃって。長生きしてくださって本当にありがたかった。その映画には全面的に協力してくれて、僕が子どもの時にあこがれていたチリンチリンチリンっていう自転車も貸していただいて自分自身で運転して走ったんですけど、うわーなんとも言えない。うれしかったですね」
「僕の子どもの時はリアカーではなくね。自転車の荷台に青い箱を積んでいたように思えた。リアカーじゃなかったように思った。そんなこともじっくりとお話しして思い出を語りたかったんですけど亡くなられたので残念でした」
生涯現役ってすごい
Q101歳まであのリアカーを引いて現役だった
「人間として見習いたいですよね。生涯現役ってすごいよね。びっくりしちゃった。僕もその話を聞いて」
Q5キロくらいの道のりをこいでいたことについて
「城下町で平らで良かったですね。坂道だらけのまちだったら大変だったけど。5キロ。へー。かなりのものですよ。何がそんなに?子どもたちが喜んだりするのがうれしかったんでしょうかね?何がそんなに続けるエネルギーだったんだろうとかいろんなことを考えましたね。
わらび餅。夢がありますよね。わらび餅ってずっと淡路島を離れてからもわらび餅の記憶だけはあって、各地に仕事で行くんですけど、わらび餅って書いてあると買わずにいられなくなってね。各地のわらび餅を買いましたね。時には葛餅(くずもち)と勘違いしちゃって、餅とついていると買っちゃった。
京都で食べるわらび餅もちょっと違うんだよな。俺の欲している僕の欲しいわらび餅じゃないんだよなと思って食べていましたね。だから川西さんのわらび餅は、僕にとってのわらび餅でしたね。わざわざわらび餅を食べに淡路島に帰るのもなかなか大変だけど、できればぱっと行ってみたい」
Q奥さんが跡を継ぎたいと言っている
「すばらしいですよね。この間、オリオン座(洲本市の映画館:洲本オリオン)でお目にかかった時もちょっとお伺いしましたけど、ありがたいですね。ぜひぜひ食べに行きたいなと思います。僕も食べに行きたいと思います。僕の密かな大好物のお話として東京では時々話すんですけどね」
妻 惠さんへ 笹野さんのメッセージ
笹野高史さん
「奥様、待っていてください。いつか僕必ず食べに行きますので。食べたいです。僕も。奥さんもご愁傷でしょうから早く奥様自身が元気になられてわらび餅ののぼりの下で笑顔振りまいている姿を僕も遠くからでも眺めたいなと思います。
なんかほっとするんですよね。わらび餅っていうあののぼりがね。奥様どうぞお元気で続けてください。僕だけではなくいろんな人が望んでいると思いますので。待ち望んでおります。おいしいわらび餅食べさせてください。お願いします」