南あわじ市の松帆地区には「〇〇飛行場跡」と刻まれた記念碑が建てられています。ここはかつて旧陸軍が建設した由良飛行場があった場所です。その横には飛行場建設のために立ち退きにあった35戸の名を記した石碑も並べられています。
この記念碑前に集まる人たち。松帆地域づくり協議会の佐藤繁俊さんは、ここに飛行場があったことを語り継いでいます。
(佐藤さん)
由良飛行場というのがこの名前であったようですけども、松帆村とえ榎列村の村長は(飛行場の)名前を言うたらあかんと軍のほうに言われるし、どない言うて(住民に立ち退きを)説明しようかなと、「どうないしよう、どないしよう」と言いよって、最終的に〇〇にするかということで、「〇〇飛行場」という名前ができた。
最高レベルの軍事機密のため飛行場の名前を明かすことはできず、「〇〇飛行場」と呼ぶようになったそうです。
これは終戦後に撮影された航空写真です。ここにははっきりと滑走路が写っています。そして、飛行場があった辺りは今も飛行場の名残をとどめています。
(佐藤さん)
積んでいるのを撮影します?滑走路のコンクリートを壊して積んでいるのを写します?
きれいに敷き詰められたコンクリートの板は、解体した飛行場の滑走路の残骸です。
飛行場は終戦後に解体されました。その後立ち退きにあった人が元の土地に戻り、滑走路のコンクリートは家の境界を示す石垣の代わりとして積まれたり小川の橋に使われたりしました。
このほかにも田畑へ水を引き込む水路からも飛行場の存在を知ることができると言います。
(佐藤さん)
これが飛行場の北側の境界線、水路。ずっとこうきて向こうまで続いている。
ちょうど赤い倉庫みたいなのがあるでしょ。あそこの山からここへ土を持ってきた。
飛行場の四方は排水のための水路が掘られました。その水路は今も残っていて、水路を結ぶと飛行場の輪郭が浮かび上がります。当時陸軍が保管していた地図と比べるとよくわかります。
(三木飛行場を記憶する会 宮田逸民さん)
阪神間の防空ということを考えて飛行場が必要になったのと、もうひとつはパイロットの養成のための飛行場。その2つが考えられます。
飛行機の離着陸はあったものの、飛行場から攻撃のための戦闘機が飛び立つことがないまま終戦を迎えます。
おととし、南あわじ市は佐藤さんとともに、戦争の記憶を風化させないため、資料を作りました。
(南あわじ市 松帆地区公民館 西中章博館長)
私ども地域づくり協議会と老人クラブが協力しあいまして資料を作成しました。
〇〇飛行場だけじゃないが、地域全体を子どもたちに知っていただいて、その中で「〇〇飛行場があったんだよ」と知っていただける資料になっている。
佐藤さんは、大人だけでなく地元の小学生も飛行場跡を案内しながら、戦争が遠い昔のことではなく身近に起こりうる脅威なのだと伝えていました。
(佐藤さん)
皆さんあちらから歩いて来ました。ここから向こう見てもまっすぐでしょ?
ここに滑走路がありました。幅30メートル、800メートルの滑走路がここにあったんです。
(児童たち)
自然に壊れると思うけど、残っていてすごいと思った。
最後に〇〇飛行場のことを話してもらって、大人になって絶対に戦争には行きたくないと思った。
(佐藤さん)
子どもたちにも将来戦争はやめてほしい、しないでくださいと念じながらいつも話している。
何らかの形で戦争から平和へという形でできたらいいと思う。