特集です。
太平洋戦争のさなかに建設され、訓練所として使用されながらもあまり知られていなかった飛行場が三木市にあります。関係者の証言から辿る知られざる特攻隊の記憶です。
三木市内に伸びる一本道、かつてここは太平洋戦争末期に使用された旧日本陸軍の「三木飛行場」でした。
終戦間際の建設で運用期間は1年足らず。関係者の多くは「特攻」と呼ばれる作戦に参加し、命を落としました。
郷土史家の宮田逸民さんは25年にわたって三木飛行場の研究を続けています。
【三木飛行場を研究する宮田逸民さん】
「特に三木で訓練して沖縄特攻に行かれた方がたくさんおられる。三木はすごく特攻隊と関連があるところなんだというのはほとんど知られていない」
旧陸軍の三木飛行場 知られていない「特攻隊」との関わり
三木飛行場で訓練を重ねた武隊のひとつが第76振武隊です。
1945年4月に鹿児島県の知覧から沖縄へ出撃し、9人が帰らぬ人となりました。
太平洋戦争末期に展開された決死の任務を行う特別攻撃隊による作戦。特攻による死者は6371人に上ります。戦況の悪化によって三木飛行場でも1945年2月からは沖縄特攻に向けた訓練、つまり、死ぬための特訓が開始されます。
地元民の記憶に残る 「特攻」の訓練
中学生だった当時、飛行場の建設に動員された長池悦男さんはその訓練の様子を鮮明に記憶していました。
【長池悦男さん】
「空中戦の稽古をやるところを私らはよく見たんですわ。宙返りをしてね。カタカタといって空砲を撃つ。『あの子らは特攻隊の卵。年齢は18歳くらいで僕らと変わらないぞ』とそれは聞いた」
大型爆撃機の配備も視野に建設か 実情は特攻隊の訓練所に
これはアメリカ軍の戦闘報告書です。三木飛行場の記載もありますが、「不明」と記されており全容までは知られていなかったことがうかがえます。
【宮田逸民さん】
「2000メートルの滑走路は但馬空港よりも広いですし近畿圏では2000メートルの長さは三木以外にはないです。大型の爆弾 魚雷を積んで離陸させようと思ったらそれだけの距離がいる」
大型爆撃機の配備も視野に建設されたと見られるものの、実情は特攻としての訓練所に。戦闘機乗りとして三木に来た訓練生たちも戦況に翻弄されていきます。
三木飛行場で訓練を積んだ76振武隊の隊員が残した遺書です。
【第76振武隊 長谷川武弘伍長(19)】※階級は出撃当時
「大君に命捧げて共に行く。死して護らん 大和島根を」
【第76振武隊 山口慶喜伍長(20)】
「母上様喜んでください。決して決して無駄死はせぬ覚悟。父母兄弟の写真を抱いて体当たり
生還した特攻隊員が明かさなかった本心とは
出撃の2日前、笑顔で写真に収まる男性がいます。三木飛行場で訓練を積んだ第213振武隊の隊長 小林信昭少尉です。特攻隊として出撃しましたが、生きて帰ってきました。
【信昭さんの妻 伶子さん】
「これ多分三木の飛行場だと思うんですけど、めっちゃ笑ってます、楽しそう」
伶子さんは、戦後に教職に就き23歳年上の信昭さんと結婚。2001年に亡くなった信昭さんから三木飛行場、そして特攻隊の話を聞かされていました。
【伶子さん】
「恐怖感とかはなかったのかな?と思って聞いたの、それは。でも『なかった』と言いました。特攻は人間を武器にするわけでしょう。あの人は生きてたまたま飛行機は整備不良で不時着したから生きたけど突っ込んだ人はいっぱいいるじゃないですか。自分だけ喜んだらあかんだろうと(思っていたのではないか)」
出撃後、信昭さんは機体のトラブルで鹿児島県の十島諸島に不時着します。地元の人の助けを得て内地へ戻った頃にはすでに終戦を迎えていました。当時の日記には「死ぬまで戦うのだ」「日本不滅」と信昭さんの心のうちが記されています。
直接言えなかった「生きていてくれてありがとう」 妻の思いは
特攻隊として命を落とした仲間と、同じように出撃しながらも生き残った自分。どのような思いを抱いていたのか、信昭さんはそれを家族にさえも明かすことなく亡くなりました。
【伶子さん】
「『あんた、生きとってよかったね』とは言えない。思っても…思っていても亡くなった人がいるから。命を助けてもらった十島諸島の宝島との交流はずっと続きましたからそれが助けてもらってありがとうの気持ちだったのかなと思う」
今年、怜子さんはみき歴史資料館での企画展に信昭さんの写真を提供しました。信昭さんの生きた証を伝えるためです。
【伶子さん】
「主人がいたから私の今の人生がある。生きていて良かったです。誰かの心の中で生きる。家族はもちろんだけど全然知らない人にもこんな人がいたんだと思ってもらえるかもいいかなと思った」
忘れてほしくない。
戦争が正しいとされていた時代に多くの命が失われ、苦しんだ人たちがいたことを。