淡路島と四国の間に位置する鳴門海峡。明治のころ、この海峡を通り日本に上陸する敵戦艦を迎え撃とうと、数多くの砲台や兵舎が建設されました。
その砲台はどうなっているのか。神子素カメラマンは、淡路島の歴史を研究している定本義広さんと太田良一さん、当時を知る地元の谷口啓一(90)さんたちと調査に向かいました。
(定本さん)
ここが軍が作った係船場ですね。地元では群が作った波止で「軍波止」と呼ばれています。
重たい荷物を船で運んできて、ここから上げていた。明治に作ったものですけど、これほど残りがいいものは珍しい。
4人が向かっているのは歴史に埋もれた鳴門要塞です。
(谷口さん)この広場が雑品倉庫ですわ。(倉庫はレンガの建物?)レンガやった。全部レンガやった。
(定本さん)ここに物品を納めていた。
しかしその先に建物の姿を確認することはできず、わずかに基礎らしきものが残っているだけでした。さらに4人は道なき道を進みます。
(定本さん)大砲の弾丸を飛ばすための爆薬火薬を保管していた倉庫です。
山奥にひっそり佇む弾薬庫。鳥取弾薬本庫と呼ばれていて、レンガ造りであることから明治時代に建てられたと考えられています。
(谷口さん)(この場所は?)ここは行者の大砲。海へ向いて大砲が6問くらいあった。
さらに奥へ進み、切り立った海岸の上に目的の場所がありました。行者ヶ嶽砲台です。
(定本さん)
ここが行者ヶ嶽砲台の砲座ということになります。実際に円形の砲座の真ん中にカノン砲を据えていた。
あの穴ぼこが伝声管。電話みたいなものを通してた穴が開いてます。
鬱蒼と生い茂った草木に覆い隠されるようにその砲台は現存していました。
この場所の他にももう1カ所砲台跡がありました。明治時代に築かれた鳴門要塞は、1903年、明治36年に洲本市の由良要塞に統合され、海峡の防衛を担っていました。
しかし、第二次世界大戦では戦艦ではなく航空機が主力となっていたため、敵艦を迎え撃つことなく終戦後アメリカ軍に破壊されてしまいます。
地元の谷口さんが子どもの頃の記憶を語ってくれました。
(谷口さん)
じいさんに連れられて中へ入ったことはかなりあります。第二次世界大戦が始まってからは(日本軍が)何十人もおりました。
戦争が終わって進駐軍いうて日本に米軍の軍隊が来てまして、大砲とか兵舎とかを爆破してました。(その様子は)見てはないけど音は聞きました。
鳴門要塞は、今回視察した行者ヶ嶽砲台を含め4カ所の砲台と弾薬庫、係船場があったことが分かっています。
(南淡文化協会 太田良一会長)
貴重な戦争の遺構ですので、なんとか後世に伝えるべく。
いまウクライナで戦争が起きてますけど、そんなことにならないように。それを有効に利用できたらいいと思う。
この地元の要望を南あわじ市の守本憲弘市長に伝えました。
(南あわじ市 守本憲弘市長)
平和を希求する場所として居続けるというのは十分にあり得る。
良く調査をして、また戦争遺構というのは文化財でもありますので、その部分を損なわないように慎重にやっていく必要はある。
太平洋戦争終結から間もなく77年を迎えます。戦争遺構が姿を消し、それに引き込まれるように人の記憶から戦争は消えつつあります。