ゆあぺディア~私とセンバツその⑫~

誰がどう見ても「エースで四番でキャプテン」がチームの軸。
2008(平成20)年、第80回大会。兵庫代表・東洋大姫路高校は、佐藤翔太投手が絶対的な柱でした。
チームの特集企画のサポートをすることになった私は、担当記者と相当悩みました。
当然、佐藤投手は紹介する、ただ、それは誰でも考えること。藤井選手や亀井選手といった主力選手をクローズアップしようか、その他の選手にするか・・・。
地元の放送局ならではの「切り口」を探せど探せど、中々見つかりませんでした。

学校に到着するや否や、堀口雅司(当時)監督の元へ。すると、こんな提案が。
「松葉を取り上げてもらうのはどうですか?」
松葉貴大選手―。初めて聞いた名前でした。

「玄人好みする選手でね、派手さはないんですけど、打線の“つなぎ役”として本当に貴重な選手。
普段からコツコツ練習する子で、頼りになるんですよ。それに父親が・・・」

聞けば、松葉選手の父・恭功さんは、同校のOBで、1986(昭和61)年の夏の選手権(68回大会)に出場。全国ベスト8の一員で、長谷川滋利さん(元マリナーズほか)とチームメートだったとのこと。

間髪空けず、一発回答でした。

松葉選手は、入学当時は投手。1年生の秋には背番号1を着けるなど、将来を期待された選手でした。しかし、その後、左ヒジをはくり骨折。一度は復帰するも、再び左ヒジを痛めて投手を断念し、外野手に転向。毎朝の書写山の走り込みなど、指揮官が認める懸命の努力で、2年秋の兵庫県大会から「2番ライト」として定着。

チームは、23年ぶりとなる近畿秋季大会優勝。その中で、松葉選手は、チーム最多の10犠打を記録しました。チームにとって5年ぶりのセンバツでも、“つなぎ役”として大きな役割を担っていました。

「佐藤を中心としたクリーンアップに、いかに得点圏で回すかということが僕の仕事です。もし、バントのサインが出たら、一回で決めます。そして、(全国ベスト8の)父を超えたいです
確固たる決意を持って、挑んだ大会でした。

大黒柱・佐藤投手の好投もあって、チームは5年ぶりのベスト4。松葉選手は、全試合「2番ライト」で先発出場、打率222.ながら、多くの得点に絡み、目標だった父の記録も超えました。

迎えた準決勝―。相手は、沖縄尚学高校。東浜巨(現ソフトバンク)、嶺井博希(現DeNA)のバッテリーを中心に、1999(平成11)年の71回大会以来となる優勝を目指していました。

私は、準決勝の前日、広島市民球場で、そのシーズン初の「サンテレビボックス席」実況中継を担当。阪神が開幕5連勝を決めた試合でした。試合当日は、「ボックス席」のベンチリポート担当で、甲子園に行くことは出来ませんでした。
宿泊しているホテルでひとまず観戦。初回、松葉選手は第1打席で、いきなりセーフティバントを見せます。惜しくも、東浜投手の好フィルディングに阻まれアウトになりますが、その直後、3番・亀井選手と4番・佐藤投手の連打で、幸先よく先制。7回にも1点を追加して東洋大姫路が2-0とリード。私は、阪神の練習取材のため、球場へ移動しました。
そして、記者席に到着。ふと画面を見ると・・・。2-4、東洋大姫路が逆転を許していました。
丁度、リプレー映像が流れていて、嶺井選手の逆転タイムリー安打。打球は、無情にも、ライトの松葉選手の足下に。準決勝にふさわしい好ゲームでしたが、東洋大姫路のセンバツ初の決勝進出は夢に終わりました。

この年、センバツ以降、私は東洋大姫路の取材をする機会はありませんでした。
当然、松葉選手の記憶は、徐々に薄れていきました。

それから2年後の春―。新聞記事に「プロ注目の松葉 好投」の見出しが。
センバツ取材をともにした記者のもとへ駆け寄り、「松葉って、あの松葉くんやん!」

松葉選手は体育教師を目指して、高校卒業後、大阪体育大学へ進学。
大学入学後、大きな転機が・・・。

「当時、関西国際大学にサウスポーの松永昴大(現ロッテ)投手がいて、その対策にと、監督さんが左投手のバッティングピッチャーを探していたんです。そして、僕が選ばれました。打撃練習で投げているうちに、先輩の“松葉はいいフォームで打ちづらい”という声が監督さんに届いたみたいで」

偶然の“投手復帰”。すぐさま、1年生の秋には公式戦で登板。いきなり、6試合に投げ、4勝1敗。防御率は0.38と、素晴らしい成績を残します。

「もちろん、またヒジを痛めるかもという不安はありました。でも、最後は自分自身が一番やりたいポジションである投手で勝負して、大学生活を終われたらいいなと思ったので

地元の姫路に帰って、馴染みの治療院で定期的なケアもしながら、ランニングや体幹トレーニングなども怠りませんでした。気が付けば、身長は5㎝伸びて、体重も5キロ増えていました。
球速は最速149キロまでアップ。大学4年間で通算31勝、MVP2回受賞、全国大会にも出場しました。
そして、2012(平成24)年のドラフト会議で、オリックスから堂々たる1位指名を受けました。

「高校時代はプロ野球選手になるなんて、夢にも思いませんでした。ヒジのケガで、“別のスポーツをした方がいい”と言われたこともありましたし、もう野球を諦めなければならないとさえ思いましたから」

高校時代から取材をしてきた私にとって、松葉投手は「努力は裏切らない」ということを教えてくれた特別な存在です。

ただ、プロ入り後、一時は侍ジャパンに選ばれるなど、順調に見えたプロ野球人生でしたが、近年は不振にあえいでいます。
昨年は、オリックスから中日へトレードで移籍するも、新天地の一軍では1試合のみの登板。
プロ7年目にして、初めて0勝に終わったシーズンでした。

かつて「プロでは苦労することが多いと思います。長く野球するためには、その苦労に自分自身がどれだけ耐えられるか。また、それをステップにして、バネにしてどれだけ“成長”できるか、だと思います
と語った松葉投手。

今季は二軍キャンプスタート、オープン戦でも登板はなく、一軍昇格に向けて、まさに鍛錬の日々が続いています。

無名の高校時代、野球さえ諦めかけた日々・・・、いくつもの試練を乗り越えてきました。
まだ、29歳、“成長”するには、十分な程、時間が残されています。

努力の先に「希望の光 みちわたり」(東洋大姫路 校歌の一部)と信じて・・・。

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