ゆあぺディア~私とセンバツその⑪~

兵庫県代表のペナントを初めて買ったのは、「育英高校」でした。
1990(平成2)年の夏。
エース戎信行(元オリックス・ヤクルト)投手の奮闘ぶりを見て、感動したからです。
それは、全国制覇から遡ること、3年前でした。
「熱闘甲子園」の育英―秋田経法大附(現・明桜)の試合は、ビデオが擦り切れるほど何度も見ました。
試合の途中、右ひじに痛みを感じて自らマウンドを降り、リリーフの森田投手をベンチから応援。
延長の末、育英はサヨナラ負け。試合後、号泣する森田投手の肩を抱きかかえ、球場を後にする戎投手。
試合後のインタビューで「ずっと寮生活だったので親孝行したいです」と笑顔で話した姿、いまだに目に焼き付いています。

「いやあ、名前はもちろん知っていましたけど・・・。入学するまで、全国制覇をしたチームとか詳しくは知らなかったんですよ
そう話すのは、かつて育英のエースとしてセンバツに出場した・若竹竜士さん(元阪神投手、現阪神一軍サブマネージャー)。
「最初に練習を見学したチームが育英でした。雰囲気を見て、このチームで甲子園に行くとすぐに決めたんです

若竹さんは、高校1年時から試合に出場していましたが、2年生(2004年)の秋、新チーム結成後から急成長。初めて背番号1を背負って、兵庫県秋季大会を迎えます。
初戦、いきなり東洋大姫路と対戦。先発の若竹投手の力投もあり、6-3で勝利。
そして、2回戦の相手が報徳学園。場所は高砂球場。報徳学園は、この年の夏、甲子園に出場。
プロ注目左腕・片山博視(のちに東北楽天に入団)投手を擁して、夏春続けての甲子園を目指していました。

「そりゃ、思いましたよ。なんで、いきなり東洋大姫路、報徳やねん、と(笑)でも対戦が決まったらやるしかない、それだけでした」

のちにプロに進むことになる二人の投げ合い(ともに完投)は、予想外の展開に。報徳学園・片山投手が制球を乱し、序盤から小刻みに得点を重ねた育英が7-1で勝利。試合が大きく動いたのは、1-1の同点で迎えた2回。勝ち越し本塁打を打ったのは若竹投手でした。

「高校時代、公式戦で打った唯一の本塁打です。だって、練習試合を含めても、通算2本ですから(笑)
時々、本塁打を打った選手が言うじゃないですか、“感触はあまりありませんでした”って。まさにその表現がピッタリ。気づいたらスタンドに入っていたんですよ

これで気をよくした若竹投手は、本人曰く「知らない間」に、球速がグングン上がり、最速142㌔を計測。

「多分、いくつか自分の野球人生を変えた試合ってあると思うんですけど、間違いなくこの試合はその一つです。片山くんに投げ勝って、自信になりました」

その後、育英は兵庫県で準優勝、近畿大会でも準優勝で5年ぶりのセンバツ切符を手にします。

2005(平成17)年、第77回大会。育英の初戦の相手は愛知・東邦。
プロ注目の右腕・木下達生(のちに日本ハムに入団)投手との直接対決は、1回戦屈指の好カードと言われていました。
「投手の木下くんもそうですけど、確かチーム打率が全チームの中で、NO1だったんですよ(公式戦のチーム打率、東邦は425.で1位)。県大会の時と同じ気持ちになりました、またかって。でも、まあ、どこかで戦わないといけないんだからと、すぐに気持ちは切り替わりましたけどね」

開会式の前には、柳ヶ浦・山口俊(現・ブルージェイズ)投手と記念撮影するなど、リラックスしていた若竹投手。調整も順調で、大会4日目の初戦に挑みました。

初回、いきなり投球で観客を湧かせます。
「立ち上がりって、あんまり覚えていないんですよ。緊張しすぎて(笑)でも、僕のストレートで、スタンドが“ウォー”となったのは記憶にあります
直球は最速145キロを記録していました。

試合は予想通りの投手戦、何と0-0で延長戦へ。
実は、試合の中盤で“見えないアクシデント”が起こっていました。

「6回くらいですかね、一塁にけん制する時にプレートを外すでしょ。その時に、右足のふくらはぎがつってしまいました。それからはストレートもスピードが落ちて苦しかった。頼むから、1点取ってくれと祈っていました(笑)」

しかし、思いは通じず、延長10回の末、サヨナラ負け。スコアは0-1でした。
「最後は、スタミナ切れでした。完全に力負けだと思いました。だから、涙も出なかったんです。もちろん、土も持って帰りませんでした」

92回を数えるセンバツの中で、兵庫県代表が0-1で負けた試合は10試合あります。
その中で、延長でのサヨナラ負けというのは、長い歴史でもこの試合だけです(夏は第19回大会、中京商―明石中が延長25回で決着)。
「そうなんですか?それは初めて知りました(笑)何でも歴史に残るのは嬉しいですね」

若竹さんは、育英高校を卒業後、阪神に入団(高校生ドラフト3巡目)。一軍でも10試合に登板しました。
北海道日本ハムにトレードで移籍した後、2013年に退団。
2014年から2018年までは、社会人チームの三菱重工神戸・高砂で現役を続けました。
昨年、阪神に復帰。アカデミーコーチを1年務めた後、今年から一軍のサブマネージャーとして忙しい毎日を送っています。

そんな中、飛び込んできた“センバツ中止”の一報。
「もちろん、この世の中の状況を考えると、中止決定に関して何も言えません。でも、選手はもちろん、保護者の方々、学校関係者の皆さんも本当に楽しみにされていたと思うんです。だから、言葉が見つからないというか、辛いですよね。“夏に向けて頑張ってください”と言うこと自体は簡単ですけど・・・。気持ちの切り替えもすぐにというのは難しいかもしれません。でも、“今出来ること”と“今すべきこと”を、一日ずつ考えて、野球と向き合ってもらえたらと思いますね

母校・育英の校歌には、
「花の色」「香に匂う」「春の園」と春を連想させるフレーズがたくさんあります。
若竹さんは、「本当の春」が92回大会の高校球児たちに、いずれ必ず訪れると信じています。

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