ゆあぺディア~私とセンバツその⑨~

「ビールいかがですかー」
初日は恥ずかしかったセリフも、大会が進むにつれ、自分自身でも違和感なく大きな声で言えるようになっていました。

センバツコラム~その⑧~で記しましたが、アルバイト代は二の次。色々な方にも出会いました。

時には、取材通路で、たくさんの報道関係者に囲まれるPL学園の中村監督。
時には、トイレで、連日の中継を担当する憧れの実況アナウンサー。
時には、スタンドで、私を冷やかしに来た高校時代の友人。

そして、時にはこんなことも。
あるチームのアルプススタンドをウロウロしていると、
「ちょっと、お兄ちゃん、こっち来て」
40代くらいの男性だったと思います。
“お、ビールでも買ってくれるのかな”と思って、急いで行くと
「試合中、ずっと横におって」
「え??」
「ビールなんぼでも買ったるから、一緒に応援してくれ!」
「は、はい!ありがとうございます!」
こうして、私は、その試合、ずっとその男性の側で応援していました、何度もビール倉庫と往復しながら。
その1試合だけで80本程のビールが、“ただ座っただけ”なのに売れました。
アルバイト初心者の私が、1試合でこれだけのビールを売るなんてあり得ないことでした。ただただ、感謝あるのみでした。アルバイトの責任者もビックリしていました(笑)
残念だったのは、このチームが初戦で敗れてしまったこと。
まさに「一期一会」の出会いでした。

66回大会は試合観戦よりもスタンドの空気を味わうことが多かったので、試合そのものはあまりじっくり見ていません。
しかし、1シーンだけ、強烈に印象に残っているものがあります。
それは、準々決勝第2試合、智辯和歌山―愛媛・宇和島東戦。
それまで4万人を超えた試合が1試合と比較的静かなセンバツでしたが、この日は土曜日。
大阪・PL学園をはじめ、近畿勢が4校登場するとあって、スタンドはあっという間に埋まっていきました。この試合で大会2度目の4万人超え。アルバイト中も、通路がお客さんでいっぱいで、ちょっと歩きづらい状況でした。
橋本将(のちにロッテ入団)捕手を中心とした宇和島東は優勝候補の一角にも挙げられていました。
対する智弁和歌山は、前年の夏に甲子園初勝利。ベスト8自体もこの大会が初めてでした。

試合は8回終了時、4-0で宇和島東リード。私は、その時、バックネット裏付近にいました。
「宇和島東がこのまま勝つんやろな」
何の疑いもなく、ビールを売っていました。

しかし、9回表、智弁和歌山が1アウトから反撃に出ます。
1点を返して、なおも2アウト満塁。押し出しのフォアボールで2点差。
さらに2アウト満塁、バッター植中選手のカウントは3ボール。
宇和島東・上甲監督は、この場面で、投手を鎌田投手から松瀬投手に代えます。
そして、1ストライクを取った後の5球目でした。

今、さも見ていたかのように書いていますが、当時の私は何も知りません。
でも、偶然、その5球目だけは見ていました。

甲子園は、この日も快晴でした。
まぶしい陽光を植中選手の打球が切り裂いていきました。
あっという間に右中間へ。走者一掃の逆転タイムリー3ベース!

いまだに、9回表に「5」と刻まれたあの日のスコアボード、目に焼き付いています。

宇和島東もその裏、意地を見せ同点に追いついたのはさすがですが、延長10回表、智弁和歌山が勝ち越し、そのまま試合終了。初のベスト4進出を決めました。
智弁和歌山・高嶋仁前監督も勇退会見で「最も思い出に残る一戦」とおっしゃったこの試合。
私にとっても忘れられない一戦です。

その後、智弁和歌山は準決勝でPL学園、決勝で茨城・常総学院を破り、春夏通じての初優勝。
和歌山県勢として、1979(昭和54)年の箕島以来、15年ぶりのVとなりました。

さすがに最後の瞬間は、アルバイトも中断してじっくり見ました。帽子のCマークが輝いて見えました。
感激しました。

実は・・・ペナント収集は、高校卒業後に一区切りと密かに決意した・・・はずでしたが、優勝を間近で見てあっさり翻意。
10日間のアルバイトを完走した自分自身へのご褒美として、1枚だけ買いました。
チームはもちろん

です。

この年、智弁和歌山が優勝していなかったら、私のペナント収集の歴史も変わっていたかもしれません(笑)


大学時代もペナント収集は続きました

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