ゆあぺディア~私とセンバツその⑥~

1992(平成4)年、第64回大会。私は高校3年生になる春を迎えていました。
いよいよ自分自身と同年代の選手が活躍する大会、私は中学時代の親友とともに準々決勝の観戦へ。
その日は朝からずっと1日、雨・雨・雨。

お目当ては第2試合登場のPL学園。1987(昭和62)年の夏以来となる甲子園でした。
相手は好投手・吉田道(のちに近鉄入り)を擁する神奈川・東海大相模、こちらは17年ぶりのセンバツ。応援していたのはPL学園ですが、ペナントはどちらも買いました(笑)

試合前、先発投手が東海大相模は吉田投手、PL学園は松井投手と発表され、まずそこで私はビックリしました。この大会、PL学園は、背番号「10」の2年生・児島投手が2試合連続の完投勝利を収めており、当然準々決勝もと思っていました。しかし、フタを開ければ、背番号「1」の松井投手。
当然、親友との会話は「この大一番で大会初登板の投手を先発とは、さすが名将・中村監督やなー」
ただ、この采配は結果的には裏目に出てしまいます。2回・3回に立て続けに失点し、松井投手は3回途中でマウンドを降ります。そのリードを吉田投手が守り切り、4安打完封勝利。PL学園はベスト8で涙をのみました。

「あの1番の投手、緊張したのかなー、惜しかったなー」再び親友との会話。

“あの1番”、すなわち「PL学園の松井投手」。この日は、ずっと頭に残っていました。のちに、西武・楽天・そしてメジャーリーグで活躍した松井稼頭央(現・西武二軍監督)さんであったと気付くのは、それから数年後のことです。

この試合に出場していたPL学園の選手でもう一人、その後、プロ野球で活躍する選手がいました。
今岡誠(1997年阪神にドラフト1位で入団、現・ロッテ二軍監督)さんです。
この大会は、全試合「3番二塁」でフル出場でした。でも、ごめんなさい、覚えていません(笑)
記憶にあるのは「1番の松井投手」「雨」だけ(笑)あと、吉田投手のストレートかな。
「確かに、吉田のストレートは本当に速かった」(今岡さん談)そうです。
でもそれ以上に印象に残っていることがあるとのこと。

以下は、私と今岡さんの会話です。
「印象に残っているのは、やっぱり松井やな」(今岡さん *以下「今」)
「松井?PL学園の後輩の松井投手かー、準々決勝で初先発やったもんね」(湯浅 *以下「湯」)
「いやちゃうで、違う松井や」(今)
「違う松井?」(湯)

今岡さん自身、「毎年夏になると、友達と朝から準々決勝をすべて一塁側のスタンドで観戦するのが楽しみだった」と言うほど、高校野球が大好きな少年でした。

3年のセンバツで初めて手にした甲子園キップ。
入場行進が終わり、スタンドで開幕戦を観戦。余韻を噛みしめている時でした。
「ガツン」
その打球はあっという間にライトのラッキーゾーンへ、いや違います、
ラッキーゾーンは前年の秋に撤去されました、打球はライトスタンドへ。
鮮やかな金属音を残したのは、石川・星稜の松井秀喜(のちに巨人・メジャーリーグで活躍)選手でした。
そう、今岡さんが話す「松井」とは「星稜の松井選手」のことです。

この大会注目のスラッガーは開幕戦に登場。1回の第1打席はフォアボール、迎えた3回の2打席目での一発でした。
「あのホームラン見て、やっぱり松井は本物やわ・・・と思った」
まさに衝撃の一打だったようです。
松井選手は5回にも豪快なアーチを放ち、センバツ史上初の開幕戦2打席連続本塁打を記録しました。

「相手は宮古高校やったやろ?」
はい、そうです、今岡さん。さすが、相手チームも覚えているんですね!
星稜に敗れた岩手・宮古高校、30年ぶりのセンバツでしたが、残念ながら勝利はなりませんでした。
その宮古のペナントはこちらです。

それにしても、この大会はホームランがわずか7本(ラッキーゾーンがあった前年度は19本)でしたが、
そのうちの3本を一人で記録した(2回戦の堀越戦でも1本塁打)松井選手は私にとってもスーパースターです。

さて、雨の準々決勝―。その星稜は第1試合で奈良・天理に逆転負け、第3試合では東京・帝京が接戦をモノにしました。そして、第4試合、最後はナイターになりました。地元兵庫の育英と埼玉・浦和学院の試合。センバツ初出場の浦和学院が4-2で競り勝ち、ベスト4入りを決めました。

あれから28年・・・。森山投手の好投も実らず、育英が負けたのはハッキリ覚えていますが、それよりも雨です(笑)
いまだに、ぬかるんだグラウンド、スタンドに咲く傘の花、ナイター照明に映える育英のクリーム色のユニフォーム・・・、目に焼き付いています。

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