ゆあぺディア~私とセンバツその④~

1990(平成2)年。入場行進曲は相川恵理さんの「約束」でした。大阪では「国際花と緑の博覧会(通称:花博)」が開かれた年。私は高校生になりました。その③でも触れましたが、前年の61回大会は受験勉強をしながらのテレビ観戦が多かったため、晴れて、堂々と(笑)62回大会は甲子園に行きました。

~♪金剛山はほのぼのと 明けて生駒も目ざめたり♪~

すみません、この年のセンバツを思い出していると、頭の中であるチームの校歌が流れてきました。
それはさておき、高校受験も終わり、どうせなら大会のハイライトになるような試合を見に行こうと友人と相談して、生まれて初めて、高校野球の準決勝へ。この日は、大阪代表が2校登場するという非常にぜいたくな一日で、第1試合が近大付―山梨・東海大甲府、第2試合が北陽―愛媛・新田でした。近大付をまずは応援しようということで、一塁側アルプススタンドで観戦しました。

試合は終盤に大きく動き、8・9回で3点差を逆転された近大付。9回裏も2アウトランナーなし。
初の決勝はお預けか・・・諦めた瞬間でした。エラーと安打で2アウト1・3塁に。そして、打者・梶原選手の一二塁間へのゴロ、まさに息を呑む私。
「ウォー!!」次の瞬間、アルプスは地鳴りのような大歓声に包まれました。タイムリー内野安打で同点!まさに興奮のるつぼに!
さらに、その後、延長13回裏に東海大甲府のエラーで近大付がサヨナラ勝ちを収めました。
ちなみに、この時の東海大甲府のエースは榎康弘投手。のちにロッテへ入団、1994(平成6)年には一軍で7勝をあげています。現役引退後はロッテの広報、現在はチーフスカウトをされていますが、広報時代にご挨拶に伺った時は心の中で「うわー、あの時の榎さんや―。すごい!」とつぶやいていました(笑)

最終的にはこの大会で初優勝、90年代初のチャンピオンになる近大付。大会中、何度も校歌を聞いたので、すっかり覚えてしまいました。先程のものは、そう、近大付の校歌の冒頭部分です。以前、「熱血!タイガース党」に阪神・藤井彰人選手(現・一軍バッテリーコーチ、近大付OB)が来られた時、本番でいきなり校歌を歌ったらビックリしていました(笑)
そういえば、一度、高校サッカーの取材でも近大付に行きました。正面玄関にはセンバツの優勝記念トロフィーがあり、1人興奮していました(笑)さらにさらに、その後の高校サッカーの全国大会中継で偶然にも1回戦の近大付の応援席リポートを担当し(第90回大会)、岩手・盛岡商に勝利した後の校歌斉唱を関係者とともに大声でするということもありました。なぜか、そらで歌えるという(笑)

話を1990年に戻しましょう。準決勝の第2試合、一塁側アルプスは初出場ながら決勝進出を目指す愛媛・新田。本来なら、北陽のアルプスへと思っていたのですが、1試合目が延長13回までもつれたこともあり、そのまま観戦しようということに。また、新田の当時のユニフォームが、私の中学の野球部と全く同じということもありました。上下が白のユニフォーム、アンダーシャツも真っ白(今はアンダーシャツのみ青のようですが)。何となく身近なチームに思えたんですよね。
いざ試合が始まると、第1試合以上の熱戦に。何と、今ではもうあり得ない延長17回で決着がつくという試合。気が付けば、すっかり日が暮れていました。新田・池田選手の見事なサヨナラホームラン、今でも音も弾道もハッキリと覚えています。友人はかなり疲労困憊でしたが(笑)私は1日で30イニング、6時間16分も高校野球が見られて、こんなに幸せなことはないとご満悦でした。最高の一日でした。

あれから30年・・・。
いまだに、近大付・後藤投手のシンプルな投球フォームと北陽・寺前投手のダイナミックな投球フォームは目に焼き付いています。

余談ですが、この年の夏、大阪を制したのは、公立高校の渋谷、春夏通じて初めての甲子園でした。
近大付も北陽も決勝に残れず・・・、やはり大阪の頂点に立つ厳しさを痛感したものでした。

ちなみに、その時のペナントがこちらです!

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