新開地もまだない明治36年創業の老舗
花隈のモダン寺前にあった為井酒店のご主人に教えてもらったのが、新開地にほど近い神戸市中央区相生町5丁目にある渡辺酒店である。
新開地本通のガスビル(現在はマンションに建替え)の手前で折れて、神戸駅方面に向かう途中で何度か出くわしていたことを思い出した。新開地本通やその界隈には居酒屋や立ち飲みがいくらでも目に付く。渡辺酒店は、なかなかいい風情で紺の暖簾が粋だ。
ある日の夕方に訪れてみた。酒屋の一角で酒を提供する角打ちと呼ばれるスタイルの店で、飲食系の立ち飲みとは一線を画する。歴史的に見れば戦後の昭和24年、大阪の西浦渉さんという人が、国税庁に陳情した結果「椅子を置かない。ツマミを出さない。紙コップなら」という条件で酒屋の立ち飲みを認める通達が出た。この通達は今も生きていると聞くが、紙コップで酒を出すところもなく、アテも充実しているのが現状である。
清酒離れが進み、酒屋を取り巻く環境は厳しい。酒を売るだけではやっていけない時代、と言われて久しい。酒屋として、じっとしているわけには行かないと店主の渡辺正明さんは、近隣の酒屋に呼びかけて「立ち呑みの会」を立ち上げた。一昔前の2006年のことだ。
お客さん同士で「立ち飲みの会」のようなものを結成するケースは聞いたことがあるが、酒を売る立場での会と聞いて驚いた。どうやら「神戸小売酒販組合生田支部・立呑部会」というらしい。おもしろい商品や話題の商品を提供したり、立ち飲みを充実させたりで、お客さんとのコミュニケーションがヒントになって次に繋がることもあるだろう。
渡辺酒店のような角打ちは酒屋がやっているから、酒は売るほどに多種多様なものが置いてある、しかも安い。仕事帰りに気の合った仲間と一杯やるのも、ひとり来て黙って飲むのもいい。店主や常連客と仲良く喋りながら飲むのもいい。
とにかく気兼ねせずに安く飲み、酔うことができる。これほど気楽で自由な飲み方のできる酒はない。われわれ客も安く酒を飲ませてもらうお返しに、消費につながる話題を提供したいものだ。それが酒屋の存続につながればうれしい。
さて月日は流れ、この7月に訪問してみた。瓶ビールと季節柄冷奴をもらった。午後5時半を回ると急に混みだしたのだった。近くの重工業の会社に勤務される人達が仕事帰りに立ち寄る時間になったのである。一人二人と増え続け、気がついてみれば狭い店内が足の踏み場もないくらいの状態になった。
店主である渡辺さん一人では対応できないと見るや、常連さんが冷蔵庫から酒を取り出して別の常連さんに渡す。こんなシステムがすでに出来上がっていて、ことはスムーズに進むのである。店主やお客さん同士の連帯感がこれほどまでに極まっている角打ちも珍しい。なんと久しぶりの筆者に常連さんが角ハイボールを振舞ってくれたのである。かようにお客さんが店を愛し支え、渡辺さんを慕っている様子が伝わってくるのである。
そのような渡辺酒店が週間ポストの「男の聖地角打ちに酔う」(2012年1月発行)に出たときに80歳定年説が囁かれた。記事が掲載されたのち、80歳を越えた渡辺さんだが、お客さんの声に後押しされて今も午後5時には店を開けている。
だが、しかし今度は2回目の東京オリンピックが開催される2020年問題だ。その年、85歳になるはずの渡辺さんに再び定年問題が浮上することは必至である。如何様にして、この難問をクリアーされるのか目が離せない。その日は東京オリンピックのカウントダウン同様に日一日と迫っている。
「渡辺酒店」
神戸市中央区相生町5-14-10
TEL 078-575-5521
営業時間 17:00~21:00
定休日 日曜、祝祭日