2019年08月21日(水曜日) 10:56 地域・まち

【特集】祖父と孫の共同証言 氷点下40度のシベリア抑留

終戦後、およそ60万人にのぼる 日本人がソ連軍の襲撃に遭い強制的に連行されました。劣悪な環境下での抑留生活を耐え抜き帰還した男性に話を聞きました。

「ダモイジャパン!早く日本に帰してやるから列車に乗りなさい」

戦後70年以上たっても消えることがない記憶。豊岡市に住む與田治郎右衛門さん93歳。

高校卒業後、一度は就職したものの1945年の終戦間際、19歳で戦地に赴きました。

「死ぬために軍隊に入った 軍隊はそういうところ いよいよ死ぬ時が来たそれだけ」

しかし、予想していなかった終戦を迎えます。

「ジャパンダモイ日本に帰れるから整列と言われた。おかしいな何日になるんだ?まだこれ走っていると。着いたところでやっぱりだまされた帰れるところじゃない、ソ連に入っちゃった」

向かった先は日本ではなくシベリアでした。氷点下40度の中で強制労働を強いられます。

「逆らえば銃殺しますで撃ってくるわけ。なんであろうとソ連の兵隊の言うままに動かなければ仕方ない文句なし。日本の軍隊の命令より怖い」

「七並べはご存知?」

唯一の楽しみは手作りのトランプでした。

「これはジョーカー 一番苦しめられた収容所の所長さん」

Qなんでその人の絵を描いたんですか?

「憎たらしいから。状況を知っている人は『ジョーカー』らしい。収容所の所長か なるほどな」と感心していた。

「(話していた戦友から)返事が返ってこない。しょうがない寝てしまったんだったと、そのまま放っておいて朝起きたら(戦友が)冷たくなっている。そういう死に方が栄養失調の死に方」

「本当に申し訳ない。死んだからといってそんなことをしてはいけないが、当時は自分の体の方が大事だから勘弁してくれと言ってふんどしから全部取り上げて自分が身に着けていた」

抑留生活では、2度の厳しい冬を経験し、1947年4月夢にまで見た日本に帰国。しかし、抑留中の話は家族にさえできませんでした。

「みすぼらしい 自慢のできるようなことだったら大いにしたけど自慢できる話じゃなかった 我々の意思は表現できないままずっと過ぎてしまったというのが私の一生だった」

ふたをしていた戦争の記憶。開くきっかけになったのは孫の存在でした。

「私の代わりに表現してくれるような良い孫ができた本当にありがたいと思っている」

今では孫の手を借りてSNSを始めました。

「これ新婚旅行だ」

「私が分からないような当時の食事などの質問が来たら祖父に画面を見せて返事してもらったことを代筆している」(孫)

家族との思い出に加え、戦争経験もつづられています。

シベリアに強制的に抑留されたおよそ60万人のうち5万人以上が日本に帰れずに命を落としました。

また、與田さんのように帰国した人も帰れなかった戦友たちへの思いを胸に苦しみ続けています。

「戦争は誰の責任でもない。みんなの責任。亡くなった戦友たちのためにも戦争をしないこと、起きないようにすることだと思う」

「当時の真実をまずは知ること。祖父の思いもバトンタッチして当時の経験談も引き継いでいって今後も活動していきたい」(孫)

終戦からまもなく74年。祖父と孫が協力し、戦争の記憶を未来へと語り継いでいきます。

あわせて読みたい

広告

広告

広告

PAGE TOP