取材メモの保管はあまりキッチリしているタイプではない。
でも、彼の関連メモはなぜかずっと手元にある。
「2002年11月7日(木)滝川第二高校 黒田監督」
初めて、岡崎慎司という名前を書いた日だ。
紙をめくってみる。
出てきた。
「16 岡崎慎司(弟・1年)」
でも、黒田監督に彼の事を聞いた記憶、メモを取った記憶はまるでない。
何と書いてるのか・・・。
「(黒田)経験のなさが出ている。決定力は相当高い。」
「(本人)兄とは小・中とずっと一緒のチームでプレーしてきた。
"何が何でも点を取るんだ"という気持ちの出たプレーはいつも勉強になる。」
う~ん、取材した記憶が全くない。
当時、背番号「16」の1年生FWは、その3日後の選手権兵庫大会決勝(サンテレビで中継)にも出場していない。そのせいか、県大会ではほとんど印象に残っていない。
当時のチームは絶対的なFWは不在だった。黒田監督も試合ごとにいろいろ変えていたのは覚えている。
4・5番手と見られていた彼とじっくり話をしたのは、全国大会に入ってからだった。
再び、取材メモ。
「2003.1。2 2回戦 滝川第二VS鳴門」
これは覚えている。確か、練習帰りのバスの中で話をした時のことだ。
「23岡崎(慎) 少し疲れている。体、全体的に重い。精神的に参っている」
ふむ、1年生だもんな。
「爆風スランプ"ランナー" 試合でも走りまくります」
??こんなん聞いたっけ?あ、思い出した。大会中、兄にもらったカセットウオークマンで
この歌をずっと聞いているって言ってた。
「今お兄さんが使っているMDウオークマンも卒業後、慎司の手に渡る」
(笑)ちなみに兄との関係はと言うと・・・
「<兄弟ゲンカ>中学生まではよくあったが、高校に入って全くしなくなった」
確かに、仲よさそうだったもんなあ。
「サッカーノート 表紙 点取り屋+ゴールハンター+全国制覇」
目標は明確だった。この3日後、彼は東福岡との準々決勝で2ゴールを挙げ、滝川第二2度目の国立行きの主役となる。
せっかくだから、もう少し見てみよう。
今度はノートだ。珍しく、探したらすぐに出てきた。
「2003 高校サッカー」
ペラペラ。「16 岡崎」あった!
もう取材した記憶もハッキリある。
「"夢" 高校サッカーは夢の1歩目。プロサッカー選手。世界№1ストライカー。」
この頃、今の彼の姿は到底、想像できなかったなあ。
「左足首付近ねんざ」
そうだ、確か、2年の選手権予選はケガで準決勝まで1分も出られなかったんだ。
「決勝に出てチームに貢献します」
第82回選手権兵庫大会決勝 岡崎慎司は後半開始から大会初出場。
ロスタイム奇跡の同点ゴール。
いまでもあの試合の実況は覚えている。
「世界№1ストライカーになりたいと話していた岡崎~、決めましたあ。」
チームは戦後初めてとなる同大会決勝での延長戦を制し、3年連続で選手権出場を決めている。
こうなったら、3年のノートも見たくなってきた。
あるかなあ・・・。あった、本当に珍しい。
「2004 高校サッカー取材」
「16 岡崎」
「黒田→"初心に戻れ""主将→プレーに集中しろ""お前は点を取ることが最優先"」
3年で主将を任された彼は、最後の選手権、悩んでいた。
チームをまとめようと腐心するあまりにプレーに精彩を欠いていた。
見かねた黒田監督は、滝二のエース番号「9」から過去2年間、好成績を残してきた
「16」に変更し、様々なアドバイスを送った。
「ラストサムライ サムライほど強い意識を持って目標を目指すものはない。
僕に足りないのは"サムライ"の心。」
映画「ラストサムライ」に感銘を受け、この頃から彼の代名詞でもある"侍"という言葉が
度々出るようになる。
第83回選手権兵庫大会。
滝川第二は順調に勝ちすすみ、4年連続の選手権出場となった。
大会前、不調が伝えられていた岡崎慎司だが、予選全4試合でゴール。
さすが!
高校時代最後の取材欄には赤字で「慎司」と書いてあった。
「1年6月までEチーム。一番下の補欠だった。自分はうまくない。
プロに行くけど、うまくて獲ってもらったわけじゃない。ミスしてもいいから
自分の最初の気持ちに戻って、"一番下手"と思ってシンプルにやるだけ」
いつも僕がお母さんと話すたびに言う言葉は
「慎司君は本当に高校の頃と同じですね。」
すると帰ってくる返事も不変。
「あの子は自分が下手とずっと思っているからやと思います。」
岡崎慎司は、昔から何も変わらない。
だから、みんなに愛されるのではないかと思う。
最後の取材メモから6年が経った。
今、彼は、南アフリカにいる。
ワールドカップ。最高峰の戦いの中に・・・いる。
試合に出られるかどうか報道によると微妙とも伝わってきている。
でも、僕は信じている。
「世界NO1ストライカー」になることを。