ゆあぺディア~私とセンバツその⑤~

1991(平成3)年、第63回大会。私は高校2年生になる春を迎えていました。
クラブ活動、いわゆる“部活”はしておらず、センバツの時期は、ハイライト番組をすべて録画しては見直し、時には直接甲子園に行き、ペナントを4~5枚買って帰るという“高校野球ファン”と化していました。
同年代の選手のプレーにただただ感嘆する日々、10日という大会期間はあっという間に過ぎ去っていきました。

大阪桐蔭高校の春夏通じて初の甲子園はこの年のセンバツだったんです。
もちろん、ペナントも買いました。(写真は夏のものも含む)

センバツコラム~その④~近大付の後藤投手、北陽の寺前投手のフォームをいまだに覚えていると記しましたが、この大会だと、間違いなく天理高校の谷口功一投手(のちにドラフト1位で巨人に入団)ですね。前年の夏、下級生ながら全国制覇にも貢献。今度はエースとして、夏春連覇を期待されていました。左足を上げて、左手首を少し曲げてから体重移動をしていく・・・2年夏よりも左足を上げる高さを3年になってからちょっと変えたな、より高くしたな、でもテークバックを小さくしたのかな?おー、フォーム改良したんやテレビを見て“一人解説”。190㎝の長身から投げ下ろすダイナミックなフォームがとにかくカッコよかった。いつか、甲子園で直接見たいと思っていました。

しかし、天理高校は2回戦で敗れ、早々と大会から姿を消します。谷口投手の夢を砕いたのは、この大会で旋風を巻き起こす長野の古豪・松商学園でした。1回戦で愛工大名電(3番投手はイチロー選手)に競り勝ち、次戦で上田佳範投手(のちにドラフト1位で日本ハムに入団、現DeNA外野守備走塁コーチ)が強打の天理打線をわずか4安打に抑え完封勝利。準々決勝では大阪桐蔭、準決勝では国士舘も完封、3試合連続完封という離れ業を成し遂げます。惜しくも65年ぶりの優勝こそ逃したものの、間違いなく上田投手はこの大会の主役でした。

谷口投手を見られなかった春でしたが、奈良県からは2校が出場、もう1校は奈良県立奈良高校でした。
これが、春夏を通じて初の甲子園。私が公立高校に通っていたこともあり、気になる存在でもあったので、友人と甲子園へ。群馬・桐生一(今や全国の常連校もこの時が実はこちらも春夏通じて初の甲子園)との対戦、奈良高校は守りのミスも目立ち、6-10で敗れました。甲子園初勝利はならなかったものの、白地に「奈良」と大きく書かれたユニフォームがとてもさわやかでした。
奈良高校は、91年センバツ以来甲子園出場はありませんが、昨年の秋は県大会でベスト4に入り、その後、奈良県の21世紀枠推薦校に初めて選出されました。いつか、また甲子園で躍動する姿を見てみたいです。

さて、時は流れてこの年の夏―。センバツの“無念”を晴らすため(?)今度こそはと、天理の試合を見に行きました。2回戦の佐賀学園戦、場所は三塁側、天理ベンチの真裏。真正面から谷口投手のフォームを見るために。
「キーン」
それは、感慨にふけっている私の思いを切り裂く音でした。佐賀学園・若林隆信選手(のちに中日に入団)の打球音。どよめくスタンド。視線はあっという間にライトのラッキーゾーンへ。見事な逆転3ラン本塁打でした。試合は、そのまま、3-1で佐賀学園が勝利。この試合が、谷口投手にとって、高校生活最後の試合となりました。果たして、谷口投手が打たれた瞬間どんな表情だったのか・・・。確かめるために、帰宅して擦り切れるほど「熱闘甲子園」を見たのは言うまでもありません。実況は武周雄アナウンサーでした。

それにしても・・・、・若林選手の打球音、弾道、そしてスタンドのどよめき・・・、一瞬にして球場の空気が変わりました。いまだに目に焼き付いているシーンです。

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